『チャチャ・リアル・スムース』クーパー・レイフ

原題:Cha Cha Real Smooth

監督:クーパー・レイフ(Cooper Raiff

Apple TV+にて鑑賞

Cha Cha Real Smooth

監督・脚本・主演を務めるクーパー・レイフは1997年生まれの25歳ながら、本作は長編監督作2作目。1作目の『Shithouse』は2020年のSXSW(サウス・バイ・サウスウエスト)映画祭でグランプリを受賞し、本作は今年のサンダンス映画祭で観客賞を受賞。アメリカのインディペンデント映画における大注目人物の一人なのだろう。

 

 

尖った作家性や際立ったクセとかはないものの、どこか独特な「ニュアンス」を含んでゆったり進むストーリー。登場人物の情報も内面も、順を追って親切に提示してくれるわけではないけれど、展開の速度に合わせて寄り添える感じが心地好い。

 

冒頭、12歳の主人公が味わう甘酸っぱくもほろ苦い経験。それは彼の人生の雛型となる。「初心」と書いて「うぶ」と読む。恋多き恋ベタ男子のアンドリュー。初キス躊躇う弟に、雄弁指南で強がるも、リアルな意志の疎通に困難。自分の苦手もよく分からずに、自分の取り柄が分からない。

 

人生も、人間関係も、相似形で出来ている。恋の仕方も相似形。幼い自分と今の自分。母と自分、自分と弟。消えない傷と未来への不安。誰もが相似の連鎖から、何とか抜け出そうと模索する。それでも他のかたちになれはしない。自分のかたちで他人と向き合うしかない恋愛。相手の言葉に縁取られる、自分の輪郭。

 

錯覚とは「なかったもの」ではない。他の人には見えない、自分が見たもの。筋違いな勘違い。はずかしいほど、すれ違い。すれたりするほど近づいて、通り過ぎてくあの人は、見当違いではない相手。

 

『FLEE フリー』ヨナス・ポヘール・ラスムセン

原題:Flugt

監督:ヨナス・ポヘール・ラスムセン(Jonas Poher Rasmussen

 

 

カタカナにすると〈自由〉と同じ「フリー」。しかし、“FLEE”は“FREE”を許されない場所から逃げること。主人公アミンが「自分の居場所」に辿り着くまでの物語だが、そこには、安全な場所に逃げて来るまでの〈過去〉と、パートナーと住む家をさがす〈現在〉が交錯している。

 

 

 

アニメーションであることが匿名性を担保するというのは、「アミン(仮名)」(主人公)を保護するという実際上の目的に適うだけではない。難民という固有性をもった問題を、抽象度の高いアニメーションによって一般の観客に届きやすいものにしている。(選択されたアニメーションのタッチもそれを意識してか、抽象性を担保するものである。)アニメーションのもつフラットさは、さまざまな隔絶を消失する。「同じ絵である」ことは、過去と現在の落差をなくす。実際の映像であれば、その質感で時代の差異が出る。再現された実写であれば、本人ではない演者との差異がある。そして「無国籍」な絵は、観る者がそこに立ち会うことを広く許容する。

 

難民であることはアミンのアイデンティティーではない、とラスムセン監督はインタビューで語っている。確かに、「難民」というアイデンティティーは、そうではない人間から見たときに一貫して同一である性質だ。「ゲイ」ということも同様だろう。そうではない立場からすれば、彼らは「同じ」。だからこそ、「彼ら」でない者たちはそこにアイデンティティーを見出すが、そうした一括りにしたからといって、ある典型がそこを支配しているわけではない。むしろ支配されていたならば、語るのは容易いはず。いや、語られるまでもない話かもしれない。しかし、アミンは自分の過去を語れない。それは社会によって明確に封じられているからだけではない。自分だけで抱えてきた物語を、話すことで分かち合ってしまうことへの躊躇いであり、重圧であり、遠慮であり、恐怖である。十代の頃から友人であったラスムセン監督は、アミンが初めてゲイであると打ち明けた相手だったという。そんな親友であっても、ゲイであると告げた後でさえも、語ることのできない「難民」としての経験。FLEE(逃げる)という行動は、何重にも自らを苦しみで締めつけて来た。去る場所への惜別、逃げる先への不安。残してきた者への罪悪感、拭いきれぬ呵責。自分の安全を何より考えねば生き抜けぬ状況で、自分以外の力に頼らなければ辿り着けぬ安全。何をしても何処にいても無念にならざるを得ず、心を何処にも置けずに生きてきたアミンにとって、自分の過去は「単なる事実=心を入り込ませてはならぬもの」になってしまっていたのかもしれない。

 

時折挿入される実写の映像。「ニュース映像を目にする度に、これがドキュメンタリーであることを思い出してもらいたくて、映画に加えた」とラスムセン監督は語る。「映画に歴史的文脈をもたらしてくれ、この物語が現実で、フィクションではないということを観客に伝えてくれる」。実写映像の時間はほんの僅かであるが、こちらが「地(背景)」であることを明らかにし、その上でアニメーションが「図」であることが確認される。「図」はあくまで「地」の上で展開されている。それを忘れさせはしないが、「図」には「図」の世界がある。大きな物語に翻弄されても、「わたしの物語」が消えるわけではない。むしろ、強烈な「わたしの物語」が浮き彫りになる。しかし、その物語(図)の際立ちは、他者(地)との交わりを禁じられているからこそのものでもある。純度を増した秘密の重さが募る。アミンの物語が実写になる日は来るのか。その答えが、映画のラストにある。と、私は見て取った。本作にふさわしい美しい結び、そして「はじまり」だった。

 

本作は、故郷を探す旅であるとも評されている。「故郷」という日本語では、その字からの印象もあって、新たに見つけるもののように思われない。しかし、英語の「home」でイメージするなら、そうした場所の定義や意味も違ってくる。住所は勿論のこと、家自体が建て替えもなく同じであり続けることも稀な日本において、昔ながらの〈故郷〉を持っている現代人はどれだけ居るだろうか。むしろ〈故郷〉とは、空洞であるか、もしくは喪失として経験されたものとしてあることの方が圧倒的に多いのではないか。そうであるならば、現代の日本に生きる多くの者は、「難民」の想いを共有することができるはず。ただ、私たちはどうしても、不変と思しき共同体への執着によって得られる「安定」という麻酔を打ちたがる。その心理こそ、本当は難民(refugee=逃げて来た者)なのだが。

 

 

*音楽(既製楽曲)が印象的に使用されている本作で、とりわけ観客をひきつける二つの場面。子供時代のアミンがウォークマンで聴く「Take On Me」(a-ha)とモスクワから脱出する際にトラックで聴く「JOYRIDE」(ROXETTE)。前者ではヘッドフォンをひとりで聴き踊っている。後者ではヘッドフォンを分け合い、静かに横になっている。対照的な状況であるが、胸の高鳴りは共通している。しかし想いは少しずつ、内へと深まっていく。逃亡を共にした彼は初めてときめきを感じた相手であり、最も危険な状況を乗り越えた同士でもある。それなのに名前も知らない。個人としての内面を、状況から完全に剥離しなければならない苛酷さが、経験を「想い出」などと気安く呼べぬ現実を物語っているかのよう。この場面でも、激しい大状況がありながらも個人としての想いを静謐に掬い取っていて印象的だったが、終盤に出てくるある場面(アミンの兄が無言で彼を連れ出す)は、同士だからこそ分かち合える痛みや苦しみ、分かち合いたい喜びがあることを思い知らせてくれる。名前も知らない彼やアミンの兄は直接心情を口にしない。しかし、同じ想いを知っている。だからそっと差し出すだけで伝わり、残り続ける想いがある。

 

*本作のエグゼクティブ・プロデューサーにはリズ・アーメッドが名を連ねている。今年のアカデミー賞の授賞式で彼がスピーチした姿を記憶していた為、本作が受賞していたような気もしたが、リズ・アーメッドのスピーチは彼が制作した「The Long Goodbye」が短篇映画賞を受賞したからなのだった。前年に自身が主演男優賞でノミネートされ、今年はプロデューサーを務めた本作が三部門でノミネートされ、短篇映画賞では自身が受賞。舞台の表で裏で、見事な活躍ぶり。

 

リズ・アーメッドと共にエグゼクティブ・プロデューサーを務めたニコライ・コスター=ワルドーは凄く印象に残っている顔なのに、どこで観たのかなかなか思い出せずにいたが(ハリウッド作品にも出演しているし、『ゲーム・オブ・スローンズ』でも有名らしいが、それではなく)、『真夜中のゆりかご』(スサンネ・ベア監督)で主役を演じていたのだった。

 

木原千裕「Wonderful Circuit」

 

作家や展示内容についてよく知らず、チラシのメインビジュアルである写真に引き付けられて足を運んでみると、その写真の地(チベット高原カイラス山)を作家が訪れることになった「物語」があり、それこそが今回の展示を駆動していることを知る。

 

「木原千裕は、恋人の僧侶との関係を彼女が所属する寺から拒絶された出来事をベースにした「Circuit」で第23回写真「1_WALL」グランプリを受賞」し、それから約1年間の制作期間を経て開催されるのが本展。「恋人であった僧侶を被写体とした作品や、寺の法要風景、仏教を含む多数の宗教で聖地とされるカイラス山の巡礼路で撮影した写真、地元福岡を撮した作品などを展示」しているが、その組み合わせ、並びからは豊富な含意が読みとられ、見る者もまた思索の旅へと誘われる。

 

 

 

「寺に拒絶された葛藤から信仰による救いとは何か、人間の尊厳とは何かを考え、巡礼の旅を通して、また写真と向き合うことで自身を発見していきました」と語る作家が提示する〈物語〉は、いくつかの次元が一つのフォーマットに混ざり合い、やがてそれら各々が持つ意味が深められてゆく。

 

カイラス山への道のりを思わせるシークエンスに現れる「(自動車の)タイヤ」を凝視する写真。「circuit」、〈巡回〉。同じ巡りを反復しながらも、必ず地面を移ろうタイヤ。究極の対照性をたたえる形状、円。多数の宗教で聖地とされるカイラス山、複数の信仰で共有される聖地。差異は普遍へと収斂されてゆく。枝葉がひとつの幹へ、同じ根へ。そこには伽藍も法衣もない。目の前に広がるのは、岩と雪。すべての人間に平等な、あるいは自由な意味もしくは無意味。

 

〈信仰〉という概念、不可視であるはずの内面的な現象。それを写真という視覚表現で捉えよう、思考しようとする試み。中盤には、カイラス山の光景、日本の寺における法要風景、日常的な街の光景が混在した一面がある。そうして提示されたとき、〈信仰〉が在するもののようには思えない。人間同士の営みのひとつとして法要は利用され、雄大な自然は人智などに関心を示さない。誰もが互いの思想など窺い知れるはずのない街中の人混みに潜むマルチバースな「信じる」。おそらく〈信仰〉とは本来、人間がいるところに在するものなのだろう。

 

しかし、だからこそ、自分の「信じる」と違う「信じる」は〈信仰〉のように思えない、思いたくないのかもしれない。何気ない「一本の木」が映っている一枚の写真を見たとき、そこに信じるに足る何かが映っていると見る人と、何も感じない人。そのどちらもが正しいにも関わらず、自分の「感じる」しか信じられない。だから拒絶してしまうのか? 拒絶を続けるから信じられるのか? そうして得られる「信じる」は〈信仰〉に足るものだろうか。

 

「circuit」には、まわり道といった意味もあるらしい。信仰の本質とは、直線的距離にはなく、寄り道を重ねる道のりのなかに生まれるものかもしれない。驚嘆に充たされた迂回路を辿ったときに不図、心をよぎる。

 

木原千裕「Wonderful Circuit」  

会場:ガーディアン・ガーデン

(日曜休館・11:00〜19;00・入場無料)

6月25日まで