『その他の外国文学』の翻訳者

「『その他の外国文学』の翻訳者」白水社編集部(白水社、2022)

 

「その他」という言葉は、必ず主たる何かを意識させる響きであるゆえに、どこか疎外感をおぼえもする。しかし、それは必ずしも単なる支流でもなければ、ましてや主流にふりまわされる傍流だとは限らない。むしろ、独立や自律の力がみなぎる場となることもある。

 

この本で語られる各人の経緯や心境には、そういった数や量では計れない深みや楽しさに溢れてる。翻訳というプロセスの先には必ず「共有」という目的があるが、拡大や征服を旨とする“主流”のそれとは違い、自らの実感こそが要となる「量なき共有」の醍醐味が“支流”たる「その他」のそれにはある。

 

 そもそも、カテゴリーというのは恣意的なものであり、そこには普遍的な妥当性を認めることなど望めるはずがない。であれば、むしろ輝かしいラベルによって「統括」されるよりも、「その他」のなかの自由を享受した方が、作品にとっては幸福なのかもしれない。主たるカテゴリーにはきっと、その広大さゆえに更なる分類が施され、○○派や○○主義といったレッテルとの葛藤が宿命となるのだから。

 

 この本で紹介される翻訳者たちが専門とするのは、ヘブライ語チベット語、マヤ語、ノルウェー語、バスク語タイ語ポルトガル語チェコ語。本来は別の言語を専攻していたが、現在の「専門」へと流れ着いたという者もいる。初めからその言語に魅入られようが、行きがかり的に辿り着こうが、彼らが「その他」言語たちにのめり込んでいく旅はどれもが幸せな偶然に満ちている。そして、そのどれもが必然としか思えない帰結を生む。それはまさに〈旅〉であり、目的地もスケジュールも見所も予め計画された〈旅行〉ではない。〈旅行〉が定められた行程をこなして疲労と共に終えるのとは異なり、〈旅〉は少しずつ目標や目的を獲得していき、いつしか思いも寄らぬ終点が始点となる。わたしたちが「その他の外国文学」を読むときに味わう自由な空気が、そこにはある。

 

 旅における出会いが旅の意義や行き先を決めるように、翻訳という営みも、作品や作家、共同作業者や編集者など、多くの出会いによって形作られてゆくものだということがわかる。だからといって、内省的な作家に比して外向的なのだというのとは少し違って、外とか先とかではなく、身近な傍らを注意深く眺めて発見したりされたりを繰り返していくのが「翻訳者」という人たちのように思えてきた。

 

 翻訳者たちの語るエピソードは多様でユニークなのだが、彼らに共通して出てくる話題もある。現地で「その言語」を口にすると決まって歓迎されるという話。ほんの僅かだろうが拙かろうが。英語やフランス語のような「主要」言語では決してそんなことはなかったのに、という感慨が添えられたりもする。この互酬感がなんとも言えず魅力的。それは自らの周縁性を自認しているからということもあろうが、「主要」メンバーが序列化に晒されているのに対して、「その他」たちは競争からの疎外が解放となり、他者の接近は警戒ではなく歓待を催させもするのだろう。それは、「その他の外国文学」に接する時の読み手にも同じ感覚があるように思う。

 

 この本の中で紹介される「その他」言語の作家のなかには、自身で「主要」言語への翻訳を行っている者もしばしば出てくる。それを知ると、「その他」言語で書く意義を改めて考えさせられるし、翻訳という〈架橋〉は、両岸があって初めて成り立つ体験なのだということも思い知る。どちらか一方だけに価値がある訳ではなく、どちらもが在って初めて価値が生まれる営み、それが翻訳なのかもしれない。そして、両岸に落差がなくなればこそ、そこには美しい橋が架かるのだろう。

 

※インタビューをもとに各章がテキスト化されている形式。

 各言語の翻訳者は以下の通り。

 鴨志田聡子(ヘブライ語)
 星泉(チベット語)
 丹羽京子(ベンガル語)
 吉田栄人(マヤ語)
 青木順子(ノルウェー語)
 金子奈美(バスク語)
 福冨渉(タイ語)
 木下眞穂(ポルトガル語)
 阿部賢一(チェコ語