『異常[アノマリー]』エルヴェ・ル・テリエ

『異常[アノマリー]』エルヴェ・ル・テリエ(加藤かおり訳、早川書房、2022)

 

2020年夏にフランスで刊行され、同年度のゴンクール賞にも輝いた本作。2021年12月の時点で110万部を突破しており、ゴンクール賞受賞作で100万部突破は『愛人[ラマン]』(マグリット・デュラス)以来。つまり、批評家からも一般読者からも支持を獲得しているということ。弥が上にも高まる期待。

 

本作は至るところで「読む前にはなるべく作品内容を知らないで読むべし」的な呼びかけを目にする。確かに、そういった物言い自体が興味をそそるだろうし、実際に読み進めるなかでその忠告に感謝する人も少なくないだろうと思う。でも、逆に、あえてこの作品の「ネタ」に当たる内容(展開)を知ることで初めて興味が湧く人もいるだろうことを思うと、「ネタバレ厳禁」文化の功罪を思ってしまう。が、この文章においてはネットにおけるマナー優先で、ネタバレに触れるまえには「警告」を入れます。

 

本作は三部構成となっていて、主に第一部では各登場人物の名が見出しとなり、それぞれの人生の一場面が切り取られていく。いわゆる群像劇ではあるのだが、ジャンル的それとして捉えてしまうと、本作の本質とは違った期待が先行してしまいそう。群像劇の場合、それぞれの登場人物が次第に「収斂」されていくタイプと、各自が独自に世界を展開するマルチバース的なタイプがあるように思う。本作は、後者なのだが、その描き方自体が本作のテーマと見事に重なり合い、響き合う。かといって、短篇集的とか連作といった趣とも違う。

 

変に絡まり合ったりしない。どんなに近くても、どれだけ同じでも、絡まらない。それが本作が読み手に課す「掟」であるかのように、群像劇に期待される最大の醍醐味である相互乗り入れをしたりしない。しかし、実際の乗り入れがなかろうが、皆が皆、「同じ列車」に乗っている(実際には、飛行機だが)。

 

映画化必至の内容なので、おそらく既にプロジェクトは進行しているとは思いつつも、本作の魅力が映像作品にそのまま移植されることは難しいため、映像化にあたっては工夫というか、映像であることで叶えられる新たな魅力によって「喪失」を埋めなければならないだろう。間違っても、SFやアクション、サスペンスといった要素を主軸に据えて映画化されてはならないし、かといって文芸色のみを貫いては本作の異常性は伝わらない。

 

娯楽小説としての醍醐味は、水平的な探索(どれだけ遠くに連れて行ってくれるか)だと思うが、予想や想像の枠を壊してくれるような興奮とは別種ながら、観念の固定を揺るがす力が本作にはあり、そういった意味では遙かな地平をじっと眺めながら考える時間がそこにはある。純文学的な醍醐味は、垂直的な探索(どれだけ深く潜れるか)だと思うが、多様な人物が出てくる分、テキスト自体でひとつひとつの掘り下げが十分になされるとは言い難いものの、「入り口までは連れて行ってくれる」ことで読者の能動性が駆動する。

いずれにしても、本作の魅力はこうした「考えるきっかけがばら撒かれる」感じに終始するところにあるように思う。登場人物の多様性がまだまだ少ないとすら思わせるほどに、眼差しは作品の外側へと向けられる。その先にいるのはきっと、読者自身の姿だろう。

 

作品の〈色〉を感じるのに恰好なのが「引用」なのではないかと思う。引用されるあれこれが「知らない、分からない」だと退屈するし、知りすぎている(=自分なりの解釈が確立しすぎている)場合も食傷気味になる。そういった意味で、本作の引用は、私自身にとってはまさしく適当だった。知ってると知らないの間くらい、引用の「示唆」機能がフル活用されるような数々だったように思う。

 

 特に気に入った引用をいくつか以下に引用する。

 

〈風は確かに、どこかで吹いた場所から吹いてくる〉(W・H・オーデン)

 

 伝道者は言う、
 空(くう)の空、空の空、いっさいは空である。
 川はみな、海に流れ入る、
 しかし海は満ちることがない。
 川はその出てきた所にまた帰って行く。
 先にあったことは、また後にもある、
 先になされた事は、また後にもなされる。
 日の下には新しいものはない。

 (コレヘトの言葉)

 

具体的な作品が明示されない「引用」的な表現にも魅力的なものが多数。たとえば、

 

「よく言われるように、金槌を手にしていると、しまいにはすべてが釘に見えてしまうものですからね」(339頁)

 

「わたしは“運命”という言葉があまり好きではありません。それは矢が突き刺さった場所に、あとから的を描き足すようなものですよ」…

…矢にまつわるもうひとつのジョーク、“矢が的にあたったのは、矢があたった場所を的にしたからだ”

(374頁)

 

作者のエルヴェ・ル・テリエは、「これまでに小説、詩、エッセーなど三十ほどの著作を刊行しており、邦訳作品としては植田洋子氏がイラストと訳を手がけた『カクテルブルース in N.Y.』(求龍堂、一九九四年)と『カクテルアンコールin N.Y.』(同、一九九五年)が挙げられる」(「訳者あとがき」より)とのことで、日本での認知はまだまだこれからのようだし、私も今回初めてその名を知った。「通称〈ウリポ〉のメンバーでもあり、二〇一九年には四代目の会長に就任。ウリポとは一九六〇年にレーモン・クノーが数学者フランソワ・ル・リヨネとともに創設した文学グループで、数学的手法を用いたテキストの変形、パロディ、特定の文学を使わずに文章を作成するリポグラムなどを通じて新しい文学の地平を追求している」(同)。本作にはさまざまな作品とのつながりを思わせる遊びが随所にちりばめられているのだが、イタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』をもじった表現も出てくる。カルヴィーノ作品は個人的に好きでいくつか読んでいたのだが、カルヴィーノも〈ウリポ〉のメンバーだったということを今回初めて知った。

 

 

[これより先で、物語の展開に触れています。]

(この表現は、「訳者あとがき」に挿入されているもの。とても親切。そして、本作の翻訳は実に読みやすい。しかし、それが単なる妥協の産物ではないだろうと感じる。訳者は著者に多くの質問をぶつけたらしく、それに著者はいずれについても丁寧に回答してくれたとのこと。それもなるほどと思える翻訳だった。)

 

この物語の肝心の設定というのが、激しい乱気流に巻き込まれた飛行機が二重に登場するということ。

ある三月に乱気流に遭遇しながらも無事着陸した飛行機があった。同年の六月、同じ飛行機に全く同じ243人が乗っており全く同じ状況に遭遇して無事に着陸する。そのとき、三月の飛行機に乗っていた243名はその日まで生活を続けて存在している(死んでいなければ)。つまり、この世界に同じ人間が二重に存在することになる。

 

第一部では、三月の飛行機に乗っていた人々のその後(主に六月での状況)がそれぞれ描かれ、第二部では二回目(二重)の「三月の飛行機」に乗っている人々への対応(アメリカが国家的に)を描き、第三部では自分と全く同じ相手(自分のダブル)との対面が描かれる。

正直、それが物語のすべてではあるのだが、そのすべてを知った上で読んだとしても(というか、物語の半ばでそうであろうことは判ってしまうので)、この小説の面白さが減じることなど一切ない。むしろ、それが判ってからのほうが断然興味深い。とは言え、それが判るまでの展開というか筆致も実に軽妙で、求心性抜群。多様な人物たちが展開する各劇も実に多様な描き方で、ジャンルレスというよりジャンルフル。そういった作りが既にメタ的とも言えるが、物語のなかには「メタ」だけでは完結できない深淵がある。主客といった二項では閉じられない(捉えきれない)多重性があるというより、マルチバースが多中心というより唯一中心の多同心円的異空間的展開。と、自分で書いていても意味不明になりそうな、意味不明が心地よくも恐ろしい、そんな不思議な境地へと誘ってくれる独特な魅力をもった小説だ。長編でありながら、短篇がばらまかれたような読後感。読者は読了後、ばらまかれた短篇を拾い集めようとするだろう。群像のつながりを見つけるためではなく、たった一人の実像をつまむために。