『パリ13区』ジャック・オディアール

『パリ13区』(2021)

監督:ジャック・オディアール(Jacques Audiard

原題:Les Olympiades, Paris 13e

 

映画監督には、年を重ねるほどに軽やかになってゆくという現象が多く見受けられる気がする。私が好きな監督が特にそうだからなのかもしれないが、アラン・レネマノエル・ド・オリヴェイラが晩年見せた余裕と貫禄には軽やかさが溢れてた。そういった方向性とはまた少し異なるが、今年70歳だというジャック・オディアールがセリーヌ・シアマレア・ミシウスといった若い才能と組んで(共同脚本)作られた本作は、若さに牽引されつつも匠の余裕が最高の「遊び」を生んでいる。だからこそ、観るものが想像を自由に注ぎ込むことができる豊かな行間がある。

 

生きるとは常にプロセスであり、その結果は皆平等に死ぬだけなのだが、人間が誰かを求めるとき、そこに在るべきものとは何なのか。精神的に解り合うことか、それとも肉体的な結びつきか。どちらが過程で、どちらが結果なのか。セックスで始まると果てる愛もあれば、キスまでの長い時間が育てる愛もある。

 

エイドリアン・トミネの短篇の3作をもとに編まれた本作は、原作において重要な要素であるという土地(サンフランシスコのベイエリア)が「パリ13区(フランス語原題は、この地区の名である「オランピアード」)」に移されているのみならず、タイトルそのものになっている。土地というのは、それ自体に一つの色や物語が染みついている一方で、場としての共有空間でもある。だからこそ、そのなかにはまた無数の個別な世界が展開されている。冒頭の空撮が共有空間としての場であるならば、本作が語りたいのは街でも建物でもなく、「一室」だ。一人と一人の人間が共有する場である部屋なのだ。そして今や、それは質量を伴わぬ「空間」であることも。

 

エミリーは祖母のアパートに住む。それは経済的な扶けにはなるものの、彼女の自由を制限する「不動産」。場は時として、そこにいる人間を規定する。しかし、人間は移動もできれば、変化もする。だからこそ、変わりたいと願いつつ、変わらぬものを求める。

 

本作の4人の主人公たちは、移動や変化という願望を、異質な他者に求める。肌の色や文化的背景、言語や仕事の違いに惹かれたり悩んだりしながらも、ここ(=自分)ではないどこか(=他人)のなかに、自分の新たな可能性を見出そうとする。そして、そうした混交性がモノクロで切り取られたパリの一区画として提示されるとき、平等な個性として正面から向き合うことが課せられる。

 

本作は、一場面だけカラー映像になる。三者三様の「肌の色」が一つのグレースケールとして提示される現実に比べ、精彩を欠いた仮想空間のカラー映像。見るという行為を眼球だけの「ふるまい」として完結させてはならぬと言われているかのような気がした。

 

役者たちが本当に生き生きとしている。新人のルーシー・チャンはエミリーそのものを生きているし、カミーユ役のマキタ・サンバが画面に与える落ち着きは特別だ。そこに、フランス映画界で昨今大活躍のノエミ・メルランが絡む。面白いくらいの鮮度と勢い。2016年の東京国際映画祭(ワールド・フォーカス部門)で観ヘヴン・ウィル・ウェイト』(マリー=カスティーユ・マンシオン=シャール監督)で主演していたノエミ・メルランは、非常に難しい役を見事に演じきっており、実に魅了された。その後もマンシオン=シャール監督作品には出演しており、最近では2020年のカンヌ・オフィシャルセレクションにも選定された『A GOOD MAN』でも主演を務めている。同作の日本での公開予定は無いようだが、マンシオン=シャール監督も興味深いテーマで撮り続けている監督だけに、二人が組んだ最新作は是非観たい。

 

それにしても、21世紀に入ってからのジャック・オディアールは神がかり的に思える訳だが、個人的には『預言者』が一つのピークで、それ以降も『君と歩く世界』、『ゴールデン・リバー』などは安心して堪能した感じだったので、このまま落ち着いて嗜めるタイプの監督だと思っていたのに、今後の展開のわからなさに胸躍らせるタイプの監督になってしまった。次回作もきっと傑作に違いない。