『インフル病みのペトロフ家』キリル・セレブレンニコフ

マジックリアリズム的な世界が展開される本作には、発熱する人物と極寒の世界が交錯する社会や時代が映し出されている。熱にうなされるとき、境界を維持する〈常軌〉は無化し出す。誰もが自分のなかに熱を持っている。平熱すらも各々違う体温が、〈外気〉から要求される指標から逸脱し、過剰な熱を帯びたとき、そこに自分だけの個人的な世界が起ち上がる。自分にとっての異物(侵入者)に抵抗するために生じる自然現象としての発熱。社会の統制に支配されない、個人に残された自由な夢想、妄想を展開するための「病」。病んでる世界では、「病む」ことで叶う「健全」性。ペトロフの精神彷徨に帯同できるのは、私自身も「病んでる」からなのか?

 

『インフル病みのペトロフ家』

監督:キリル・セレブレンニコフ(Kirill Serebrennikov

原題:Petrov's Flu(Петровы в гриппе)

 

キリル・セレブレンニコフは、インタビューで原作を激賞しており、更に「この作品は詩です」と述べている(インタビュワーに「あなたがこれを原語で読めないのは残念」だとまで語っている)。だからこそ、その映画化も「詩としての映像作品」をめざして本作のようになったのだなと納得。ちなみに、セレブレンニコフは原作を「映画よりもずっと複雑」だと語っており、原作では現在/過去や現実/想像がよりシームレスに描かれているようだ。ちなみに、最大の見せ場のひとつである18分間の長回しが、本作の撮影で最初に撮られたシーンだったとか。それは作品の核心であり、作品全体の出来を左右する場面だったからこその判断でもあると思うが、撮る側のシームレスな世界観への没入という意味でも大いに機能したのではないかと思う。

 

セレブレンニコフは舞台の演出も手がけているからか、インタビュワーに「映画にも演劇的感覚があるように感じる」と言われるものの、難色を示し、「映画を作る時は、演劇的なものは全て消し去ろうとしている」と答えている。確かに、長回しにおける見え方は演劇のようなダイナミズムを感じはするが、明らかに映像としての映えや感応が考え抜かれた結果としての観る側の楽しみがあったように思うので、個人的には演劇的というより演劇と共有され得るスペクタクル性のように感じた。

 

原作者のアレクセイ・サリニコフのインタビューがパンフレットに掲載されているのだが、そのなかにある日本の観客へ向けたコメントの中で「映画の言語はどんな観客にも理解できます。それは、言葉ではなく形象の言語だからです。それゆえ、映画の言語は素晴らしいのです。キリル・セレブレンニコフは映画言語の巨匠です」と述べている。タルコフスキーの作品で語られていた「詩人が音楽家に憧れる」という話を想起した。まさに、セレブレンニコフの作品は音楽的であるがゆえに、〈感じる〉による受容を可能にし、だからこそ、こういった複雑であるはずの物語をただただ浸って嗜める映像叙事詩へと昇華できているのかもしれない。

 

ペトロワを演じていたのは、チュルパン・ハマートワ。個人的にも大好きな『ルナ・パパ』&『ツバル』の彼女なのだが、観ている間は全く気づかなかった。ロシアによるウクライナ侵攻後に、彼女がメディアのまえで決意表明していたのを見て、その時も気づかなかった。二十年前とは違った魅力と強さを宿した物凄い女優になっていた。

 

審査員団が違っていれば、パルムドールもあり得たのではないかと思えるほどの本作(セレブレンニコフは今年も新作「チャイコフスキーの妻(Tchaikovsky's Wife)」がカンヌのコンペに選出されている)。好き嫌いで語られそうな側面があり、またロシア通やロシア人が観ると違った捉え方がありそうでもあるが、ロシアに詳しくない凡庸な映画好きである自分でも、本作には惹きつけられて止まない中毒性を感じる。一度観ただけで全く解っていないはずの本作に魅了されたのも、説明できない部分にこそ宿る「詩情」のようなものを感じたからかもしれない。

 

*本作の劇場用パンフレットは、とにかく内容が充実しているし、情報・テキスト・画像など全てが「入れたいものはなるべく入れる」観点で編集されていて、本作を気に入った観客が鑑賞後に手にする最上のお土産になっていた。しかも、700円。近年のパンフレット価格は上がる一方で。1000円台も珍しくない程だが、これほど充実のパンフが700円で販売できるなら、他の配給会社も努力してほしい。個人的な想像では、本作のパンフは、スタッフやキャストのインタビューなどは適宜既存記事などから流用するなどして原稿料等を抑えているのかなと思うが、それらのチョイスも的確な上に、その分情報量もなるべく増やしてしている。映画好きにとってのパンフの目的をよく理解した作りになっている。装丁に凝ったり、少ない点数の写真を凝った風レイアウトによってページ数水増しして定価を釣り上げてる昨今の風潮に違和感を覚えていたので、久しぶりに真っ当かつ作品愛の感じられるパンフレットで嬉しくなった。(作品をすごく気に入ってパンフを購入したのに、そのパンフが残念な出来だと「裏切られた」ような気分になる。まさに、その逆の展開だった。)

 

日本版のポスターも好いが、本国版(?)のも魅力的。
あまり見かけないが、↓のポスターが個人的には好き
Постер фильма