『ベルイマン島にて』ミア・ハンセン=ラブ

ベルイマン島にて』(2021)

監督:ミア・ハンセン=ラブ(Mia Hansen-Løve

原題:Bergman Island

 

入れ子構造をもった本作は、何から何までがそうした構造下にあることを思わせる。ベルイマンの物語の下に、ミア・ハンセン=ラブ自身の物語の下に、映画史の下に、キャストの個人史の下に、土地の歴史の下に、『ベルイマン島にて』で描かれる物語がある。どちらかが絶対的に〈外部〉であり得る訳ではない。内包関係は反転し得る、いや、そもそも内も外もないリバーシブルな関係なのかもしれない。ミア・ハンセン=ラブの分身である「クリス(ヴィッキー・クリープス)」が分身として物語の中の「エイミー」を語り、その「エイミー」を演じるミア(・ワシコウスカ)を演出するのはミア(・ハンセン=ラブ)である。「エイミー」の心に取り憑いて離れない「ヨセフ」を演じるアンデルシュ・ダニエルセン・リーは、ミア・ハンセン=ラブのパートナーだったオリヴィエ・アサイヤスの『パーソナル・ショッパー』における亡霊だった。

 

「島(island)」というのは特別な場だ。陸(land)とは異なるイメージが頭を支配する。地面が海に浮かんでいるという現実が自分を蔽う。精神と肉体は、どちらが海で、どちらが島なのだろう。あるいは、虚実はどちらが海なのか。それらは区別しようにも、実は緊密に連動しているものだから、どっちがどっちだろうとも、結局は同じ運命の下にあるのかもしれない。クリス(ヴィッキー・クリープス)がエイミー(ミア・ワシコウスカ)の物語に同期したように、ミア・ハンセン=ラブが自身を投影した映画のなかに自身を見出すように。

 

クリスもトニーも窓辺の机に向かい、「仕事」をする。フィクションを創造する仕事。家の内と外を隔てつつ、それらをつなぎ、通す場でもある窓。そのそばで虚実を往来する想像。現実が宿るのは、机上のノート?それとも窓の外?

 

ミア・ハンセン=ラブは本作のテーマを「解放」だと語っている。自分が求めるフィクションに現実が支配されようが、現実にフィクションが汚染されようが、それは虚実の衝突であり、乖離である。それらの境界線が消失したとき、私たちの心と身体は現象界の重力から解放される。入眠直前の純粋幸福。そうした夢現の体現がそこに在る。

 

*虚実の関係が本作のテーマのひとつであるならば、それらを語るうえで最も重要な作業が編集だろうと思う。編集を担当しているMarion Monnierは、ミア・ハンセン=ラブの長編作品すべてを手がけている。彼女はオリヴィエ・アサイヤス作品でも仕事をしているが、『アクトレス 女たちの舞台(Clouds of Sils Maria)』や『パーソナル・ショッパー』といった〈越境〉する作品群を編集している。いや、彼女の編集によって〈越境〉が実現しているのかもしれない。ミカエル・アースの『サマーフィーリング』(本作のヨセフ役であるアンデルシュ・ダニエルセン・リーが主演)や『アマンダと僕』もマリオン・モニエが編集を担当している(最新作『Les passagers de la nuit』も)。時空を疾駆しながらも、ふと気づくと「離陸」しており、気づいた途端に間隙へと吸い込まれる。そんな時間の魔術が展開される、それがマリオン・モニエの編集世界。