『編集者とタブレット』ポール・フルネル

『編集者とタブレット』ポール・フルネル

  (高橋啓訳、東京創元社、2022年)

 

変わりつつある出版界。紙の本は消えるのか? 読者は何を求めるのか? 古きよき時代の編集者が直面する時代の荒波。彼の驚きと哀しみと当惑はすべての出版人と読書人アルアルといっていいだろう。東京創元社Webサイトより)

 

原題は「La Liseuse」。「訳者あとがき」によると、仏和辞典では「読書家、ブックカバー、ペーパーナイフ、読書灯」などの訳語が載っているが、本作のタイトルとしては「電子本を読むためのデジタル端末器機、通称タブレット」を指す言葉として用いられているらしい。(アカデミー・フランセーズ推薦の用語なんだとか。)

 

本作が本国で出版されたのは2012年。なぜ本作がこのタイミング(2022年に日本)で出版されるのかについての言及は「訳者あとがき」にはなかったが、著者ポール・フルネルの作品が日本で出版されるのは初めてとのこと。『異常[アノマリー]』の著者であるエルヴェ・ル・テリエが現会長を務める文学集団〈ウリポ〉で、ポール・フルネルは2003年から2019年まで会長を務めていた。〈ウリポ〉の新旧会長の作品が同時期に日本で紹介されることになったのは、単なる偶然なのだろうか。私がこの二作を手に取ったのは偶然だが、読み終えると勝手に必然を感じてきたりもする。「検索」や「おすすめ」の結果ではないからこそ、偶然に必然を感じられもする。

 

連休中のある晩に、早めに床に就いてしまったら、二時間ほどで目が覚めて、その後寝付けず本を手に。すると、何が填まったのだか判らぬが、そのまま一気に最後まで。深夜の適度な静寂の中、翌日のことなど考えず、読み耽るのが愉しい小品だった。主人公が孤独すぎず賑やかすぎず、懐古な趣味が我を張りすぎず、新奇先取に流されない。そんなリベラル保守なスタンスが、連休谷間の眠れぬ真夜中に、押し付けがましくなくフィット。

 

紙の本すべてが売れなくなるわけでもなければ、電子化したから売れるわけでもない。そうした現実を現状として認識する主人公ロベール・デュボワは、メディアとしての「本」へのノスタルジーやセンチメンタリズムを語りはしない。個人的な趣味として「紙の本」を偏愛しつつも、電子書籍の可能性(および必要性あるいは必然性)だって十分受けとめている。但し、そちらは自分が担うべき仕事、担って楽しめる仕事だとは思っていない。だから、デジタルネイティブに道を譲る。その代わり、自分にしか出来ない後見は厭わない。熱すぎないけど淡泊でもない、そんなプロ意識が心地よい。本の送り手でありながら受け手であるという意識のダブルが、本との距離感、他者との距離感を常に「適当」に規定する。

 

《紙かデジタルか》といった二者択一ではなく、《紙なりに、デジタルなりに》できることを模索する二者の棲み分け乃至は掛け算。多様性が画一化の前兆になりうる宿命から逃れるかのごとく、共存共生を自覚せずとも望む主人公。紙を愛し、デジタルには馴染みきれない、そんな世代だからこそできる提案なのかもしれない。両方に同じ深さで馴染むことなどできない。だからこそ、世代の違う者たちが協働し、紙とデジタルの止揚を目指す。紙だけでもデジタルだけでも衰退が不可避な出版業界だからこそ、第三の道もしくは三つの道で往くことを考える。

 

数は少ないながらも、フィルムで撮ってデジタルで上映する映画が今でもある。その内容に適した形式がある。内容と形式は不可分だと主人公も語る。紙を排斥したところに書物の生き残る道が開かれるわけではない。とはいえ、紙の道だけで往けば行き止まり。紙で叶えられなかったこと、紙には敵わないこと、それぞれがもたらせる〈内容〉がある。コンテンツだけになったらメディアは要らなくなる。メディアそれ自体への愛着こそが、コンテンツを生き永らえさせる道かもしれない。

 

紙の原稿で膨らんだ鞄の重さ、持ち運びの負担。それは一元的な利便性からすれば、ただ単にマイナス要因。しかし、人間の感情はそれを等しく嫌だと思うわけではなく、その重量に感じる想いもさまざまだ。重い鞄が生むドラマだってある。幹がデジタルだけになったとき、枝葉の生じる余地はない。紙という幹にデジタルを接ぎ木して、豊かな枝葉を期待する。真に豊かな言の葉の木。