『乾いた人びと』グラシリアノ・ハーモス
『乾いた人びと』グラシリアノ・ハーモス(高橋邦彦訳、水声社、2022)
ブラジル映画の新しい潮流「シネマ・ノーヴォ」の映画作家ネルソン・ペレイラ・ドス・サントスによる『乾いた人生』(1963)の原作。映画の方は以前アネテフランセでの上映時に観たことがある。その時は、監督本人も来日し、登壇していた。ザラついた作品のテイストとは全く違い、和やかで包容力溢れる人となりが印象的だった。彼の初長編『リオ40度』は大いに気に入って、二度目の上映にも足を運んだ。
日本でも2013年に公開された『アントニオ・カルロス・ジョビン』。ジョビンの音楽が映像で繋がれただけなのに、それらが結ばれたことで生まれる豊穣さは紛れもなく、ネルソン・ペレイラ・ドス・サントスという映像作家の手練がなせる業だったと思う。
今年2月、『乾いた人生』の原作である『乾いた人びと』が日本でも出版された。
*それを記念して、『乾いた人生』の上映とシンポジウムが5月19日木曜にアテネフランセ文化センターで開かれる。
言葉を話せないオウムが殺される。しかし、そのオウムとさほど変わらぬ言葉しか持たない家族たち。名すら与えられない少年たちに比して、名が与えられ、鮮やかな内面描写もある牝犬バレイア。そもそも、本作は「牝犬バレイア」という短篇から書き始められたとのこと。貧しさが人間と動物との境界線をなくすのか、豊かさが人間を動物との区別に駆り立てるのか。もしくは、社会や家族といった枠組みは、生存への不安がなくなった次元でこそ機能するものなのか。
「それは実際には会話とは言えなかった。繰り返しや不適当なものが混じり、とぎれとぎれで、間延びした話だった。時々喉の奥から出る叫び声がその曖昧な話に迫力を与えた。本当のところ、彼らのどちらも相手の言葉に注意を向けていなかった。彼らは心に浮かんだ考えを口に出して言った。そのような考えは次から次へと頭に浮かび、変形していった。彼らにはそれらを自由に操る手立てがなかった。表現方法が乏しかったので、大声で話して、その足りない部分を補おうとした。」(「冬」74頁)
「地獄」という言葉の意味がわからないという。「天国」ではなく。それは、想像できないほど遠いからなのか、当たり前のように傍にあるからなのか。
喉の渇きから声が出ない。乾きとは単なる潤いへの背きではなく、言葉からの離反なのかもしれない。乾きが言葉を奪うとき、人は営みをやめるだろうか。