『この道の先に、いつもの赤毛』アン・タイラー

『この道の先に、いつもの赤毛アン・タイラー

  (小川高義訳、早川書房、2022)

 

よく出来た小説を読むと、“普通の人”というのは「神話」の登場人物に過ぎないということがよくわかる。“普通の人”というが、「平均の集合体」であるとするならば。

 

よく出来た小説は、すべての人が主人公になり得ることを教えてくれる。それは、最大公約数的な人物が主人公になっているのではなく、どんなに偏屈な人間だろうが語り手になり得る資格を有していることを証明してくれるから。

 

図書館を利用する価値のひとつに、元来の興味には引っかかりにくい作品を手に取る機会に恵まれることがある。アン・タイラーの小説を読むのは初めてだし、名前も知らなかった。本作も、新着本コーナーで見かけぬ限りは手に取らなかっただろう。

 

読み進めるうちに、左手が担当する分量が減ってゆき、背表紙のカバー袖にある「著者近影」の画像が目に飛び込みがちになる。

 

 

この彼女の顔がちらつきながら、四十過ぎの一癖ある独身男性の主人公が語る話を読み進める興醒め感を少しは考慮して欲しかった気はするものの、おそらく読者の大半はアン・タイラーという作家のファンなのだろうから、そのような注文を付けたくなる自分の方が明らかに「門外漢」なのかもしれない。

 

しかし、おかげで、80歳を迎えようとしていた彼女がこのような小説をなぜ書こうと思ったのか、何を思いながら書いたのか、といった視点を持ちながら読まざるを得なくなった。

 

きっと、アン・タイラーがこれまで出会ってきた男性、あるいは実際に交際したり一緒に生活していた男性の要素が、主人公には描き込まれているのだろう。ただ、本作では主人公マイカ・モーティマーの視点で語られるので、アン・タイラーの観察だけではなく、アン・タイラーの想像力によって形成された自我が「再現」なり表現されているのだろう。そして、それは時として、自分や自分と似ている人物の描写よりも豊穣な素地になり得るのだと思わせてくれる。自分のことの的確な言語化が、時として他人によってなされるように。

 

そんなことを思うのも、「他者の方が自分をよく知っている」ことを教えてくれもする本作の展開のせいであり、少しずつ主人公がそれに勘づいていくからでもある。そんな道のりを主人公のすぐ横で同時に体験するような感覚で読める小説だ。

 

主人公のほんのちょっとの気づきが、少しずつ堆積してゆき、背中を押す力へと昇華する。

 

なるほど世の中を立ち行かせるのは女だ(そう、“立ち行かせる”のであって、“動かしている”のではない)。(127頁)

 

世の中を「動かす」のと「立ち行かせる」のは、どちらが難しく、どちらが重要なのだろうか。その違いは、責任の有無(あるいは強度)なのかもしれない。後先ばかりを考えると変化は起こせないが、変化を忌避ばかりしていては立ち行かない。関係を継続するためには、関係性の維持固定ではなく、関係性が変化することへの許容や受容なのかもしれない。

 

彼だって、一皮剥けば、自分で思っていたい以上に、身内と同じなのかもしれない。掃除機をかける日を一回飛ばすだけで、すぐにでも混沌を極めるかもしれない。(154頁)

 

主人公マイカは、整理整頓とは無縁な四人の姉から「異端」と見なされながらも、本人はそこに些か矜持がある。それは姉妹と自分を差別化するのだが、ルーツを辿れば表面上の差異など単なる結果に過ぎないことを実感したりもする。結果から逆算された性質の確定にしがみ付くような、思考による実践の抑圧。実践は思考に命じられることもあれば、心情から流れ出ることもある。前者が社会的な振る舞いであるとすれば、後者は個人的な営みとも言えるだろうが、無意識に前者的な振る舞いを内面化して生活全般の信条としてしまいがちなところが(男性には特に)あるように思う。その方が「安定」すると思われるからだ。しかし、そうして得た(と思っている)「安定」は、あくまで幻想なのかもしれない。

 

いったん自分のものになってしまえば、おかしなことが目についてくる。(214頁)

 

物質の変化も免れないが、それ以前に対象を見る主体である自分こそが常に変化の下にある。所有による固定は幻想であり、本当に所有し続けるためには、自らのなかの像を固定してはならない。固定した瞬間から、対象は所有できないもの、所有に値しないものになってしまう。いや、そもそも所有という発想こそが像の固定を促してしまっているのかもしれない。

 

距離が在るからこそ対象が「見える」(捉えられる)ように、距離が介在して成り立つ関係性において、双方の変化を受け入れてこそ、その間にある距離を保つことができ、その距離こそが両者を繋ぎ止めるものになるのだろう。