篠田桃紅展(東京オペラシティ アートギャラリー)

昨年3月、107歳で逝去した篠田桃紅の「長きにわたる活動の全貌を紹介するとともに、その広い射程と現代性を今日的な視座から検証する」展覧会が、東京オペラシティ アートギャラリーで6月22日水曜まで開催している。

 

彼女の名を私は「桃江」だと思い込んでいた。

 

彼女の作品にはどこか水を感じさせるものがあるから…というのはただの言い訳だが、先日目にした彼女の随筆には次のように書いてあった。「私の作るものに私は自ら『涌』『澄』『井』『泉』『漲』などという題をつけていることが多い。「あそぶ」と題したい時も「游」と、さんずいの文字を自然にあてている。私は水墨の仕事をしながら、心の底の底で、幼い日の水遊びに還りたい願望を持っているらしい」。

 

そして、自身が〈抽象〉の世界へ入った想いについて、「川」という字を例に語っている。

 

「書を書くということは紐付きなんです。なぜって、書は私がつくったかたちではないから。もともとあるかたちをアレンジするだけですから。書は創造ではなく、アレンジです。すでにあるものをどのように書くかっていうだけです。たとえば、三本の縦の線で書く『川』という字を四本や五本にしてはいけないんです。だけど、私は好きな数だけ、好きなように書きたいという欲求があるから、決まりごとのなかにはいられなかった。…自由になれば、たとえば『川』は水が流れている姿からできた字だから、水が流れている姿をもし表現したいと思ったら、何本の線を描いても構わない。そう思った。ある程度の長さでやめることもない。永遠に引いたって構わない。決まりきった大きさのなかにきちんと収めることもない。私は『抽象』という自由な立場に立ったんです」(篠田桃紅『これでおしまい』より)

 

彼女の名は「桃」だからか、今回の展覧会もキーヴィジュアルには

 

確かに、彼女の作品において黒と白以外で色が用いられる場合は、圧倒的に赤色か金色。彼女にとっての赤とは何を表象しているのだろう。富士山に魅了されてやまなかったという彼女は、とりわけ二十五歳の夏に初めて見た「赤富士」には驚いたと語る。更には「富士という山にはないものがない。あらゆる色、あらゆる線、あらゆるかたち、すべてがある。富士には一切がある」と言う。

 

桃紅が草野心平と話をしたとき、「富士が美しいのは、そこに火があって、てっぺんに雪がある。その両極があるっていうことが富士を丈高くしている。ああいう美しいものはこの世にない」という言葉を聞き、思ったという。「両極が含まれてるということは、一切がそこにあるということよ」。

 

桃紅の赤は「火」なのかもしれない。

 

墨は、松の木の根を燃やす煙の煤(すす)を集めて、つくられる。

煤は、高く舞い上がれば舞い上がるほど軽く、粒子はこまかい。良質の墨ができる。

その名も「頂煙」という銘の古墨を、私は硯にためた水に下ろした。

生命を燃焼したあとの極みが、再び、その対極にある水によって生かされる。

これは、おおげさに言えば、実に感動的なことで、静かな畏れを覚える。

(篠田桃紅「火の化身」)

 

白と黒、無と有、水と火、面と線、直と曲。

対極は、衝突でも矛盾でもなく、包容であり、全貌となる。

 

着物を好む理由を、彼女は次のように語っていた。

 

「着物と洋服、人の身体を包むということでは同じ。非常に違うのは着物は包むのよ。洋服は入れるのよ。かたちの決まったものの中に生身の人間が入っていくのよ。それは大変な違い。物と人との間柄の違いね。着物は人間に対して非常に謙虚。洋服は人間を規制している。私の中に入りなさい。私はこれ以上大きくも小さくもなりません。着物はどんなに太っても痩せても、同じ一枚で済むじゃない。私は人間が主人である着物のほうが好きなの。洋服は従わなければならない。それがイヤなの。イヤというより情けないのね。」

 

着物の方が不自由の印象が強かったが、一定の型を持つからこそ、その範囲では大いなる自由を謳歌できる〈場〉なのかもしれない。確かに彼女の作品の前に立ったとき、そこに溢れる自由には「厳粛な形式」とでも言いたくなるようなものがコンテクストとしてあった。だからこそ、自らが引く線に、自覚的に自由を宿そうとするのだろう。彼女が封建的な時代、厳格な家庭の下で、自由を勝ち取って来たように。

 

「余白の白は、墨に対立するということがない。ただ無為の深まりを示すばかり。」

「墨はいくら濃くしても真の闇にはならない。明るさを残している。何かやり残しているところがあるから、人類は生きていられるんですよ。」

 

篠田桃紅の800点を超えるコレクションを持った岐阜現代美術館にもいつか足を運んでみたい。また、1954年から10年近く続いたという丹下健三との共同作業も直に見られるものがあれば見てみたい。