『映画を早送りで観る人たち』 稲田豊史(光文社新書)

『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ——コンテンツ消費の現在形』

  稲田豊史(光文社新書、2022年)

 

基本的な疑問を多角的に掘り下げ、考察している。論理的でありながら、個人的な感情なり信条なりも反映させつつ書かれているため、納得のみならず共感もある。各章のタイトルは次の通り。「早送りする人たち——鑑賞から消費へ」、「セリフで全部説明してほしい人たち——みんなに優しいオープンワールド」、「失敗したくない人たち——個性の呪縛と「タイパ」至上主義」、「好きなものを貶されたくない人たち——「快適主義」という怪物」、「無関心なお客様たち——技術進化の行き着いた先」。全体的に言えるのは、映画を観るという行為が「作品を鑑賞する」という態度から「コンテンツを消費する」行動へ、「物語を感受する」という営為から「情報を収集する」活動へ。そこにある事情を説得力のある根拠や考察で解明していく。

 

早送りするのは若い世代ほど多いという傾向から、時代的な影響や教育や環境の違いなども原因として指摘されている。教育に関しては、将来のことを効率よく(無駄を省いて確実性を高めるべく)検討するように仕向ける「キャリア教育」の影響が指摘されている。確かに、少なからず影響があると思う。ただ、教育の影響ということでいえば、いわゆる「作品鑑賞」の場となり得る教科教育においても少なからぬ影響があるように思う。

 

例えば、「国語」という科目においては、高校の新学習指導要領において文学作品よりも「実用的な文章」を重視する傾向が加速している。文面で明確に規定はしていないものの、時間数や科目内容(=教科書内容)の規定からすれば、それは明らかであり、学校教育において「物語を鑑賞する」場自体が奪われつつある。小学校の「道徳」科目化は、人間や社会の在り方について「正解」が存在するかのような感覚をもたらしかねない。結末までの逡巡よりも、結末自体の判定に興味を持つようになったとして不思議ではない。

 

大学入学共通テスト(旧センター試験)の「国語」の現代文分野では、評論と共に小説も出題されているが、それは小説のほんの一部分の抜粋が提示されている。当然、その部分までの内容は出題時に数行の「ダイジェスト」で示される。早送りで全篇を観るよりも、明らかに粗い物語の受容ではないか? そもそも、小説を部分だけ切り取ってきて出題する意味とは? そのような扱いを受けた小説を文学作品と呼べるのだろうか? 教科書で文学作品が扱われる際も同様だ。短篇作品でない限り、物語のほんの一部が抜粋されて掲載されている。オリジナルの作品そのもの(全体)に触れるよう促さぬ限り、「ほんの一部分」とダイジェスト解説だけを与えただけで終わる。教科書的には、「早送り」は邪道どころか王道ですらない。早送りとはいえ全篇に触れるならば、教科書よりも遙かにマシな作品の享受と言えるかもしれない。

 

最近の学校現場では作品について語る際、要約や紹介的なものを書かせることが多い。確かに、誰にとっても適当だ(間違いではない)と言える内容だけを要求すれば、採点や評価はしやすいだろう。しかし、そこでは一人の読み手として何を考えるのかは必要ない。(むしろ、それを排して書けと言わんばかりである。)原稿用紙の使い方や説明の仕方などの形式的技術的な注文に終始する指導は珍しくない。

 

作品そのものとじっくりと向き合う経験があれば、その「かけがえのなさ」を知るはずだ。

 

早送りしない人たちは、早送りできなかった時代に観るようになったからだけなのかもしれない。しかし、だからこそ早送りしないで観る経験を積み、その醍醐味を知れた。だからこそ、早送りできてもしないで観るという選択をしているのだろう。本格的な素材や調理による美味しいものを知らなければファーストフードで満足できるだろう。ファーストフードで満足する人間になるかどうかは、その人の経験に因るところが大きい。そして、より困難を伴う高度な経験ができるか否かは、「大人たち」の責任感の有無によって決まる。ファスト教育で覚えるのは鑑賞じゃなく消費。だからこそ、教育を「早送り」しないことがまずは必要なのではないか。