『ドンバス』セルゲイ・ロズニツァ

原題:Donbass

監督:セルゲイ・ロズニツァ(Sergei Loznitsa

 

ドキュメンタリー映画3作品が2020年に初めて劇場公開されたセルゲイ・ロズニツァが2018年に発表した本作は、「劇映画」。事実に対峙する姿勢、真理を追究する方途は、ドキュメンタリーでのそれと何ら変わらない。ロシアのウクライナ侵攻に対するヨーロッパ映画アカデミーの姿勢を批判し自ら脱会したセルゲイ・ロズニツァ。しかし、フランスの映画祭でのロシア映画ボイコットに彼が抗議の声を上げると、ウクライナ映画アカデミーからは除名処分を受ける。自らを「コスモポリタン」であるとし、その主張で貫かれた姿勢で映画を撮るロズニツァ。それが本作からも痛烈に伝わって来る。

 

社会の状況を鮮やかに切り取り前景化させるロズニツァだが、その関心の中心はあくまで人間の側にある。〈全体〉の在り方そのものではなく、それが〈個人〉にいかに作用するか、〈個人〉がそれにどう反応するか、それをこそ活写し、観る者に思考を促そうとする。事態が複雑化し、もはや個人の意志によって振る舞うことが困難になったその時こそ、人間がどのような存在かを問うべきなのだと画面全体が語りかけてくる。

 

本作は実際に起こった出来事や投稿された動画などをもとに撮られた13のエピソードから成っているが、それらは単なる「オムニバス」的な挿話の連なりではない。登場人物が相互乗り入れしているばかりか、複数のエピソードによって背景や事情は立体化し、読み取るべき現実は増幅し、思考すべき課題は膨張する。「なぜ?」という問いの立て方自体を疑わざるを得ない次元へと誘う。一つの〈国家〉=「正義」を前提としない限り、「因果関係」「根拠」「敵」などといった言葉は機能しない。どちらを糾弾すべきかは、どちらに加担するかということであり、何を解決すべきかは何を打倒すべきかであるということを、“身動き”できぬ精神へと追い詰められた「目撃者」(本作の観客)は知る。

 

ドンバス地区に暮らす人々は、どちらの立場であろうと(あるいは、中立たろうとしても)国家に翻弄されるばかりであるはずなのに、そんな場所でこそ最も国家が無意味になろうとしている。純粋な秩序を求める(=混沌を微塵も許容しない)ナショナリズムこそが、弁証法すら通用しない最も混沌とした事態を招く。そのような状況下では、国家でも個人でも反動的な受動態となるしかない。そこにはもはや意志など機能しない。魂を抜かれ、状況の奴隷となった人々の生きながらにして亡霊化したかのような現実が展開される。映画の最初と最後には「フェイクニュース」の創作現場が出てくるが、そこではまだ自覚的に「演じる」という振る舞いが見られるがゆえに、むしろ〈平時〉のようにすら思えてしまう。それくらい「演じる」余裕のなくなった現実が続いている。ワンカットで提示されるひと続きの時間と空間は、そこに映っているすべての時間と空間が堆積・凝縮されているために、観る側に安易な取捨選択を許さない。人々をとらえるカメラも「視点」を与えてくれはせず、追いかけることで精一杯である〈眼〉からは、思考のための選択を自分でするしかない。まさに、現実に立ち会わされているといった感覚だ。

 

本作のエピソードが「実話である」と強調されるのも、これはあくまで「再現」に過ぎないという事実を確かめさせるためかのように思える。実際はどうだったのか。再現しきれないものを観る者の頭の中で無限に想像させる。各挿話、各場面の前後には、画面に映らない部分では、何が起こっていたのか。そこに思いを馳せて初めて「物語」が始まる。観る者の数だけ「物語」が起ち上がる。という事実を認識したとき、「コスモポリタン」たる存在に少しだけなれるかもしれない。