『シティポップとは何か』柴崎祐二(河出書房新社)

『シティポップとは何か』柴崎祐二河出書房新社、2022年)

 

「シティポップ」という定義は昨今のブームで刷新され定着した感があったが、本書を読むとそういった体感の正体が見事に“証明”され、肯きの心地よさと思考発展への好奇心で読み止す間も惜しく読了してしまった。

 

「シティポップ」という呼称のルーツや変遷、背景や事情などを事実に基づきながら丁寧に考察するところから始まり、現在そう呼ばれている音楽群を同時代の観点や後世からの認識のみならず、多角的に捉えようとするアプローチのもつ示唆は、読者の興味方位を見事に開拓。筆者(1983年生まれ)が、元祖「シティポップ」をリアルタイムで体験していない世代であるということがむしろプラスに作用して(本人がそれを書き手の強みとして自覚的)、経験主義によるバイアスから完全に自由になった論考が展開されている。論争的な話題には深入りせずとも冷静に分析するし、具体的な固有名詞も遠慮なく明示されているのだが、個々の事象の羅列や確認だけでは終わらない。文化としての音楽(カルチャーとしてのシティポップ)を社会という枠組の中での現象として捉えようとする意識が常に根底にはあり、だからこそ「とある」分野や現象にだけ通用する指摘になっていない。あらゆる文化事象にも通底するコンテクストの想起と、さまざまな文化現象とも共有しうる考察が見事に展開されていく内容は、音楽ファンを満足させ、音楽を知的に考えてみたい好奇心を充たす。

 

精緻に組み立てられている本書の内容から短絡的で簡素な個人的な結論を導くならば、シティポップ人気の理由はやはり「オシャレ」にありということだ。但し、そのオシャレ要素は一過的熱狂で消えたりしない。その要因として納得するのが、シティポップのもつ機能を象徴する二つのキーワード。「シーンメイキング」と「ノスタルジア」。

 

シティポップ群のリアルタイム人気を支えていたのは、オシャレな風景に合う音楽であることから派生した「現前の光景(現実)をオシャレにしてくれる」音楽の効き目。つまり、シティポップの最大の強みは「視覚的」であることだった。政治色からは極めて遠く(というより、むしろ完全脱色に近く)、ものすごく経済的な(消費社会における快楽の享受を背景とする)シティポップは、「見た目」が大事なのだ。あくまで個人的な意見だが、元祖シティポップ群においては、アートワーク等の「見た目」やアーティスト本人の雰囲気には相応のオシャレ感が必須であったように思うが、アーティスト自身の「見た目」そのものはそれほど重視されていない(というか、人気の要因として機能している訳ではない)気がした。それは、そういった音楽を聴く人々が求める「見た目」は、アーティスト本人とは別のところ、つまり音楽が作り出してくれる「見た目」の良さにあったからかもしれない。(しかし、随分最近まで日本の音楽シーンにおけるアーティストの「見た目」は重要な人気要素だったように思うし、その欠如によって人気という面でハンデを負ったミュージシャンが大勢いたように思う。その逆もまた然り。余談だが、山下達郎の新作『SOFTLY』のジャケットが「顔そのもの」であることに時代の流れを大いに感じたり。)

 

したがって、実際にはヴィジュアルを持たない「音楽」なのに、「見た目」が好い音楽であるシティポップとは、極めて汎用性の高い良質を備えていることになる。だからこそ、時代や文化を超えて享受されるのではないかと思ったりもする。

 

本書に収録されている、「〈再発見〉はどこから来たか?:海外シティポップ・ファンダムのルーツと現在地」と題されたモーリッツ・ソメと加藤賢による論文では、シティポップ愛好者へのアンケート調査をもとに興味深い論考が展開されている。そのなかで、「シティポップから連想するキーワードを3つ挙げてください」という設問(自由回答形式)の結果が面白い。その1位になった言葉が「ノスタルジア(Nostalgia)」。出現頻度で言うと、2位の「Funky」(7.5%)のほぼ1.5倍、3位〜6位(Japan、Summer、Relaxing、80s)の3〜4倍の、11.5%となっている。しかし、ここで語られる「ノスタルジア」は、かつて実在した過去への郷愁というよりは、かつて憧れていたが実現しなかった夢想世界へのそれだという指摘が本書では度々なされている。だとすれば、そういった気持ちを誘発するシティポップの効果効能は、果てしない夢となってあらわれるだろう。(但し、シティポップにそういったノスタルジアを覚える人の数は、少なくないけれど莫大とはいかない程度なので、その「限定」具合がシティポップを生き長らえさせる秘訣のようにも思われる。)

 

シティポップにおける「ノスタルジア」を巡っては、本書の終盤で更に興味深い論考が展開されている。それは、ロシア出身の比較文学者/メディアアーティスト/作家であるスヴェトラーナ・ボイムの著書『The Future of Nostalgia』(未邦訳であるのに筆者が和訳して引用してある!)で展開されているノスタルジア概念にもとづくもの。彼女はノスタルジアを二つのタイプに区別しており、それが「復旧的(Restorative)ノスタルジア」と「反省的(Reflective)ノスタルジア」。前者は「故郷を強調し、失われた故郷を、歴史を超えて再構築しようとするもの」であるのに対し、後者は「憧れそのものに生成し、賢く、アイロニカルに、かつ是が非でも「帰郷」を遅らせるもの」とされている。そのうえで、「復旧的ノスタルジアは、自らをノスタルジアとはみなすことなく、真実や伝統と考える。反省的ノスタルジアは、人間の憧れや帰属意識の両義性に思いを馳せ、現代の矛盾から逃げようとはしない。復旧的ノスタルジアは「絶対的な真実」を護持し、反省的ノスタルジアはそれを疑う」と述べている。それを承けて筆者は、現在のシティポップ受容における「復旧的ノスタルジア」の危険性を指摘しつつも、「反省的ノスタルジア」の可能性に期待してもいる。現在において「シティポップとは何か」という問いのもとに物された書籍の結びとして、理想的かつアクチュアルな〈回答〉だと思った。