『石を黙らせて』李龍徳(講談社)

『石を黙らせて』李龍徳[イ・ヨンドク](講談社、2022年)

 

石を黙らせて

 

タイトルと装丁に惹かれて手に取った。だから、読み始めてから驚いた。主人公の男性は17歳の時に友人と女性を強姦した。その罪を償うことなく生きてきた。しかし、結婚を控えた主人公を「良心の呵責」が俄に襲う。耐えきれずに彼は告白する。婚約者に、そして家族に。被害者を見つけ出して罪を償おうとしている自身の計画についての報告と併せて。その計画とは、自身の罪を吐露した文章をブログに曝し、名乗り出た被害者の要望通りに罪の償いをしたいというもの。

 

主人公「私」の内面の葛藤が中心に描かれていくと思いきや、物語の主軸は彼を取り巻く人物と「私」との対話にある。それぞれの反応は違うようでいて同じでもある。それぞれに守るべきものがあり、それぞれに想像の射程も異なる。しかし、「私」の行動を暴走視していることは共通し、それは「私」が自らを特別視していることと表裏一体でもある。だから本作に出てくる人間に、無条件に赦される者はいない。赦しを請おうが、赦しを拒もうが、「自分が許せるかどうか」で全てを決める者たち。描かれる対話はすべて擦れ違う。中心となるべき罪、想われるのが尤もな被害者、それを誰も見ていない。言語や行為に還元できない贖罪を懸命に言語化し行動として示そうとする「私」と、その傲慢と空虚さを指摘することで贖罪を無効化する「関係者」たち。良心が罪に触れたくない気持ちだとすれば、贖罪に目覚めた「私」の良心もまた、罪そのものから遠ざかろうとしているようにすら見える。

 

どんなに自己矛盾や自己欺瞞を孕もうと、他者の論理を呑みさえしなければ、自分の論理を貫ける。それはもはや信仰にすら思える。石を黙らせようとする「私」の衝動は、彼の内に芽生えたひとつの信仰かもしれない。そして、信仰なしに誰も生きられない。しかし、信仰を共有することの難しさ、共有できる信仰の空疎さに耐えきれず、エコーチェンバーに閉じこもる自己。

 

禅問答のような対話を重ねてきた「私」は、最後の人物とようやく向き合っている。「私」の求めるものが奇跡に過ぎないことを自分で知りつつ、それでもそれを求めることに意味はあるのか。それは果たして贖罪たり得るか。結局、誰も裁かなければ、誰も裁かれない。裁くべきか否かすら、分からない。しかし、問われている。