『秘密の森の、その向こう』セリーヌ・シアマ

 

 

私も少しまえに身内が他界したこともあって、母を亡くした母親の方に自分の感情が向かいながら見はじめる。身内の死はまさに、身の内に大きな欠落が起こる喪失感であり、自分の一部(感じ方によっては半分、それ以上)が失われるような感覚になる。その要因のひとつに、記憶の喪失があるように思う。親は自分の知らない過去を知って(憶えて)おり、それは生まれたときからでもあるので、計り知れぬ奥行きがある。だから、そうした存在の消失は、自らの過去そのものが葬られてしまったかのように思えてしまう。過去自体はまだ自分のなかに存在しているので(憶えていなくとも)、その喪失感は完全なる無ではなく、どこまでも《不在 》。だからこそ、それは解消や解放からは程遠く、共生しか許されぬ感情なのだ。

 

主人公のネリーは、自分と同じ年齢の母親と時間を共有する。それは、自分の知らない母親の過去と出会うことであり、母親も自身が知らない未来と出会っている。そうやって互いが知り得ない記憶を共有する。

 

マリオン(ネリーの母親)は、自らの母の死によって、自らの過去を失った。未来があるためには過去がなくてはならない。ネリーが8歳のマリオンと記憶を共有したことは、過去の回復であり、未来の造成だったのだろう。

 

作品の情報に思考が左右されがちな自分なので、観ると決めた映画の情報はあまり知らずに観ることが多い昨今の自分は、この映画を観ながら「ドキュメンタリーっぽい」印象を持ったりもした。その後、主演の二人が双子の姉妹であると知る。納得。

 

本作が宮﨑駿や細田守の作品から影響を受けたといった情報も、後に見る。セリーヌ・シアマが制作中に意識というか参照したところもあるかもしれないが、それを知らずに見ている間は、それらの作品群が頭をよぎることはなかった。そう言われてみれば、なるほどと思うところもある。が、本作がジブリに似てると感じるよりも、ジブリ作品の世界観というか佇まいがそれだけ普遍性をたたえているということなんだとも思った。

 

邦題に関しては仕方ないと思うから、その努力を察するに留めるべきなのだろうけれど、やはり原題(PETITE MAMAN)の豊潤過ぎる示唆を隠蔽してしまっているようで寂しくもある一方、それに気づいたときのとっておきの幸福感のための所業なのかもしれない。勝手に『星の王子さま』の原題(LE PETITE PRINCE)にまでレファレンスしたくなる気分にもなったし。

 

Petite Maman (2021) - IMDb