『ホテル』ワン・シャオシュアイ

原題:The Hotel(旅館)

監督:王小帥(Xiaoshuai Wang

The Hotel': Wang Xiaoshuai returns to his roots in pandemic ...

東京フィルメックスにて鑑賞

 

ワン・シャオシュアイの監督作で個人的に最も印象に残っているのは『重慶ブルース』だったりするのだが、同作は東京国際映画祭で観たきり観られていない(劇場未公開)。決して評判が良かったわけでもないのに(カンヌのコンペには選ばれているものの)、なぜ自分が惹かれたのか判然としないのだけれど、とにかく長江の上空を渡るロープウェーが魅力的だった。ロウ・イエ作品でおなじみのチン・ハオも好かった(ちなみに、彼の最近の出演作では、WOWOWでも放映されていたドラマ『バッド・キッズ 隠秘之罪』が面白かった。)

 

一般的には、古参シネフィルは『ルアンの歌』、昨今の映画ファンのあいだでは『在りし日の歌』で認知されていそうだけれど、『北京の自転車』や『我らが愛にゆれる時』なんかも劇場公開のみならずWOWOWで放映までされてるので、それなりのメジャー感があってよさそうなワン・シャオシュアイなのに、いまいちコアなファンが少なそうなのは(映画祭ですら上映されてない作品があったりするのはそのせい?)、いわゆる「作家性」というやつが判りにくい監督だからかもしれない。

 

が、そのハッキリとしない作家性の妙が、本作においては見事に発揮される方向に。

 

フィルメックスの本作紹介には「COVID-19の影響でチェンマイのホテルに足止めされた宿泊客たちの間に次第に巻き起こる波紋」とだけ。この最小限の説明が好かった。そのくらいの事前情報で臨めたゆえの僥倖になった気がする。(ただ、紹介文には「ワン・シャオシュアイ監督が実際に2020年の旧正月を過ごしたホテルを舞台に描く人間模様」と書いてあったので、てっきり劇中においても旧正月が描かれているのかと勘違いして見始めてしまったが、劇中ではおそらく4月下旬のようだった。)

 

モノクロ、スタンダードサイズという規格外感はコロナ禍のもつ非常事態感につながるというよりも、外部の激動とは対照的な内部の静かさを際立たせる方向に作用しながら、古典映画の軽妙な語りを思わせもする(ホテルでの群像劇って時点でそういう意識は働きそう)。観る者を弄ぶように、映画は「チャプター2」から始まる。一瞬、自分が見落としてしまったのかとも思うが、「チャプター3」の後に「チャプター1」が来る。そして(おそらく映画のちょうど半分あたりで)タイトルが出る。つまり、前半まるごとアバンタイトル(と言っていいのかな?)。この構成からして「これは何をしたい、何を語りたい作品なんだろう」という宙づり気分で作品と接することになる。が、この地に足がつかない(本作で何度かプールの場面が出てくるが、まさにプールのなかを歩くような)感覚が、コントロールしようにもできず身を任せるしかない当時の状況を想起させたりもする。

 

物語では三組の宿泊客たちが関係する。

 

20歳の誕生日をもうすぐ迎える娘スオワーと母親。母親には娘に話していない秘密があり、それはどうやら「不在」の父親に関することであるらしい。自分の誕生日になぜわざわざチェンマイなどに来なければならないのか、不満が拭えぬ娘。

 

すれ違いが生じつつある初老の男性「ユー先生」と妻。元教え子と思しき妻は、夫が定年前に退職したことに疑問を抱きつつ真意を問いかける。「そんなに言論の自由が大切なの?」という妻の言葉の背後にあるものが気に掛かる。この場所(チェンマイのホテル)に執着してなのか、中国へ帰国することへの願望が稀薄に思える夫。

 

盲目の男性の介助をする26歳の青年アドン。「彼女はいない」というアドンは、「女の子に興味はないのか?」との質問には答えない。自分は父親の遅い結婚の後に生まれた子であると語る。

 

感染への恐怖や警戒から閉じこもったり交流を避けるスオワーの母やユー先生の妻、そして盲目の男性。その一方で、自分だけで交流を模索する三人(スオワー、ユー先生、アドン)が交錯する。自分が置き去りにされたかのように感じる三人の「相手」は、自らの胸の内を語り、「あるべき関係」への着地を探るが・・・

 

帰国できない状況でホテルに幽閉され、心身共に「隔離」状態となった者たちが向き合うのは、自らのなかに潜む秘密と孤独。自覚的に秘密を把持し、それを打ち明けようとする者たちと、秘密の当事者であることを知らず(あるいは忘却し)、孤独な自由を享受するかのような者たち。現実と向き合うことを避けてきた代償、一時の奔放さに走った悔恨、それらは常に後から訪れる。「いま起こっていることが何なのかわからない」のは、パンデミックといった大状況に限ったことではなく、むしろ私たちが直に接するパーソナルな領域にこそ潜んでいる次元だったりする。

 

最後の10分ほどでジャンルが変わったかのような展開を見せ、本作は終わる。「THE END」を突き付けて。その転調、その幕切れ、それが語りかける、人間が関係するということ。ワン・シャオシュアイの悪戯は、人生や運命で跋扈する悪戯の模倣に過ぎぬのかもしれない。

 

Xuan🌻 (@XuanLX) / Twitter