『新訳 老人と海』アーネスト・ヘミングウェイ、今村楯夫 訳(左右社)

新訳 老人と海 | 左右社 SAYUSHA

 

本書には、60頁以上にわたる「訳者解説」がある。その中で、訳者の今村氏は次のように語っている。

 

「私が新たな翻訳に挑戦してみたいという思いを抱くに至った理由は、自分の納得できる言葉と表現で訳してみたいという思いと、これまでの翻訳書がいずれも、マノリンの年齢を一〇代前半の「少年」と解釈し、訳されてきたことに疑念を抱いたところにある」(129頁)

 

今村氏は、本文に出てくる「boy」を「若者」と訳している。従来「少年」と訳されていた「boy」だが、様々な観点や根拠から「少年」という語が与える十代前半から半ばのイメージとは矛盾する点を指摘。20頁にわたって、二十歳前後であろうことの証拠や証明が展開されている。研究者の間でも10歳説と22歳説で分かれるらしいのだが、今村氏の主張する「若者」訳には十分説得力があると同時に、作品全体のもつ味わいに深みが出てくる。

 

確かに、『老人と海』といえば、老人と少年の交流といったイメージが付きまとってきた。しかし、今回、「若者」と訳された本作を読み返すと、老人の世界に向けた眼差しの深奥にある懐古や憧憬の色彩が違って見えてくる。そして、「若者」が「老人」に抱く敬意や親しみのニュアンスも変わって感じられる。

 

老人と海の物語を人間と自然の対比として読むならば、そこには無常なるものと永遠性の対照が浮かび上がってくるが、人間にも継承を通じて永遠性を保持する可能性があるとするならば、「老人」と「若者」にはそうした関係を強く感じる(「少年」であるよりも)。

 

今村氏は、本作から読み取れる〈円環〉について語るなかで、次のような興味深い考察も提示している。

 

「『日はまた昇る』はヘミングウェイの最初の長編小説である。主人公の名前はジェイコブ・バーンズ。ジェイコブとサンティアゴは聖書で呼ばれるヤコブである。英語名のジェイコブはスペイン語ではサンティアゴであり、ヘミングウェイの最初と最後の小説の主人公が同一名、ヤコブサンティアゴなのだ。その名前が由来するサンティアゴ・デ・コンポステラはスペインの巡礼の道の最終目的地である。聖書の名を与えられたふたりの主人公が、結果的にヘミングウェイの最初と最後の小説に登場するのは偶然ではないだろう。」(167頁)

 

「訳者解説」の終盤には、今村氏が三十年ほど前にコヒーマルの漁村(『老人と海』の舞台)を訪れ、サンティアゴのモデルのひとりとされるグレゴリオフエンテスの家を訪ね、話を聞いたときの体験談を記した文章(『新潮』1992年3月号掲載)が丸ごと収められている。『老人と海』に潜むもう一つの物語を読むような感慨にひたった。