『Corniche Kennedy』ドミニク・カブレラ

Corniche Kennedy(2016)

監督:ドミニク・カブレラDominique Cabrera

MUBIにて鑑賞

media

 

日本にはほとんど紹介されていないドミニク・カブレラ監督による2016年の作品。ローラ・クレトン(Lola Créton)の主演作ということで観てみることにした。彼女は、ミア・ハンセン=ラブの『グッバイ・ファーストラブ』(2011)、オリヴィエ・アサイヤスの『5月の後』(2012)と立て続けに主演したこともあり、個人的に気になっていたものの、その後の出演作を観た覚えが無かったので、MUBIでの本作配信による「再会」は嬉しかった。ちなみに、アリス・ドゥ・ランクザン(Alice de Lencquesaing)はオリヴィエ・アサイヤスの『夏時間の庭』(2008)とミア・ハンセン=ラブの『あの夏の子供たち』(2009)の双方で素晴らしい存在だったのに、嬉しい再会を果たせていない気がする。

 

 

「corniche」とは断崖沿いの道路のこと。そうした場所から若者たちが海へと飛び込む場面から本作は始まる。そうした狂騒に憧れの眼差しを向けるLola(ローラ・クレトン)。ふとしたきっかけから、彼ら破落戸集団の戯れに加わり始める。そこで惹かれ合った二人の男性、Mehdi(Alain Demaria)とMarco(Kamel Kadri)の「手引き」によって、Lolaは馴染むことを拒んでいる出自からのダイブを試みる。彼らを演じる二人はおそらく本作が初出演のようで(おそらくプロの役者ではない)、そうした彼らから滲み出る身体性が本作の魅力に貢献している気がする。彼らに比べれば、役者としては「ベテラン」なはずのローラ・クレトンが彼らに挟まれて(スクーターに何度も三人乗りして実際に挟まれている)、「自然に帰れ」と言わんばかりに清々しく翻弄されているかのよう。

 

人は何故に「落下」に惹きつけられてしまうのか。それは、自然なことでありながら、それをそのまま享受することへの抵抗、恐れがある。子供のころは、高いところに昇ることとそこから飛び降りることへの興奮と喜びに身を委ねることが自然だった。しかし、積み重ねた高さが増せば増すほど、人は顛落しないことばかりを考え始める。〈高層〉に棲む人々は、見下ろすことに感じる恍惚に酔いしれるが、それは安全が確保されている場合に限る。生身でその高さと対峙せねばならぬ場所では、高さは恐怖の源でしかない。「落ちてはいけない」「落としてはならない」場所としてそこに立つとき、自らの身分や矜持などは無力と化す。しかし、それらを脱ぎ捨てたとき、落下の興奮を全身が受容する。

 

恐怖を克服した(それは同時に、高さを手放したということでもあるのだが)Lolaが、恐怖に支配された刑事に手を差し伸べるラストが秀逸。その直前、対照的な彼女らの潔い「放棄」も効果的。

 

それにしても、本作の主役はやっぱりマルセイユの海だろう。その色といい、吸い込まれるような細波の質感といい、断崖に立ったときの恐怖は必ずしも高さだけではない気がする。

 

「わたしたちの登る丘」アマンダ・ゴーマン

『わたしたちの登る丘(The Hill We Climb)』アマンダ・ゴーマン

 (鴻巣友季子訳、文春文庫、2022年)

 

アマンダ・ゴーマンは大学を卒業したばかりの22歳の詩人。そんな彼女がバイデンの大統領就任式で読んだ詩が本作「わたしたちの登る丘」。バイデン大統領の妻であるジル・バイデンが予てより才能に注目しており、自らアマンダ・ゴーマンに依頼したという。

 

「2021年1月20日、22歳の詩人アマンダ・ゴーマンはアメリガッシュ国第46代大統領就任式で自作の詩を朗誦し、一躍時の人となった。1998年、ロサンゼルスに生まれ、学校教師でシングルマザーの母に育てられた彼女は、米国議会図書館の支援で世に認められて花開くまでは様々な苦労を経験してきた。名望を得た今でさえ、黒人であることで差別を受けるという。そんな若き詩人がアメリカのこれまでの苦難や人種・階層の分断、これから目指す道や団結への希望を、力強いメッセージをもつ詩にうたいあげ、圧倒的な「声の芸術」として聴衆に届けた、それがこの就任式の詩誦である。」

鴻巣友季子による「訳者解説」より)

 

We’ve braved the belly of the beast.

We’ve learned that quiet isn’t always peace,

And the norms and notions of what “just is”

 Isn’t always justice.

 

勇を鼓し、悪の跋扈する場にもぶつかってきた。

沈黙、すなわち平穏とはかぎらない、

只そこにある(ジャスト・イズ)ものが規範や通念となろうとも、

それが正義(ジャスティス)とはかぎらないと知りもした。

 

見事な頭韻は、英語を話せぬ私ですら詩を朗読することの感動を味わえる。そして響きの重奏は、意味の重層への導きに。「just is」と「justice」も単なる音の重なりだけで終わらない。ただbeなだけ(たまたま今そこにある)というだけを根拠に正当化しようとする強者の論理。「今までそうだったから」を規準にする怠惰、「そんな声は聞こえてこない」という既得権者の主張。本来あるべき正義の姿を隠蔽する、「正義」の所業。

 

訳者の鴻巣氏は「訳者解説」で次のように評している。

「詩全体に、語と語、フレーズとフレーズ、モチーフとモチーフが、ネガティヴからポジティヴへの転換、イメージの反転と対照化が繰り返され、悲嘆から希望へと向かおうとする一編の強靱なテクストを織りなしていく。これは、人びとの歩み寄りと相互理解によって、アメリカの分断を融和し、光射す未来を目指そうとする詩人の意志が紡ぎだした文体なのだろう。」

 

We lay down our arms

So that we can reach our arms out to one

 another.

We seek harm to none, and harmony for all.

 

さあ、武器(アームズ)を置こう。

たがいの体に腕(アームズ)をまわせるように。

だれも傷つけず、皆が調和する社会を目指そう。

 

同じ言葉がもつ両義性は、「同じ」の危険性と可能性を語ってもいる。

 

Let the globe, if nothing else, say this is true:

That even as we grieved, we grew,

That even as we hurt, we hoped,

That even as we tired, we tried.

That we’ll forever be tied together.

 Victorious,

Not because we will never again know

 defeat,

But because we will never again sow

 division.

 

すくなくとも、これだけは事実だと地球に言わせよう。わたしたちは

懊悩しつつも、大きくなり、

傷つきながらも、希望をすてず、

疲れ切って(タイヤード)も、力を尽くし(トライド)、

とこしえの絆を得た(タイド)のだと。

わたしたちに勝利があるのなら、

もう二度と負けないからではなく、

もう二度と分断の種は蒔かないから。

 

言葉がちょっとズレただけ。未来に光が射すかもしれない。

 

「訳者解説」で鴻巣氏は、「翻訳の力量ではなく、属性が作者本人と違うということで不適任とされた」二人の事例(オランダ語訳者として指名されたマリエケ・ルーカス・ライネベルト、カタルーニャ語訳を完成させていたビクトル・オビオルス)を紹介している。「ふたつの言語や文化や社会が互いに異質であればあるほど、つまり翻訳不可能なものほど、訳業を必要としている」翻訳のディレンマ的な存在意義を感じながらも、アマンダ・ゴーマンのこの詩のもつ特殊性を鑑みたとき、訳者に向けられた眼差しの複雑さに単純な解答を出すことの難しさが述べられている。そうした困難は翻訳に顕著なものだろうが、他者との理解を試みるときにはいつでも、避けてはならぬ、避けるべきでない試練のようにも思う。

 

本書には、訳者の鴻巣友季子と作家の柴崎友香の対談が収められている。柴崎は「普段しゃべっている言葉で言いやすい形で感情が伝わることをそのまま書けば伝わるかといえば、違います。伝わらない、ままならない言葉と格闘することによって、文学の言葉が出てくる」とし、日本における詩がどうしても「気持ちや感覚を素直に書くもの」みたいな印象に縛られてしまいがちな現状に対する違和を言及している。

 

国民全体を相手にする政治においては、「わかりやすい」「伝わりやすい」がモットーとされがちで、実際その方が効果は上がる。しかし、それはあくまで数字の上での話であり、幸せのような心のなかの話においては別のはず。討論や演説ばかりで埋め尽くされた政治には、個人の想いが息づく場などない。しかし、社会のかたちを詩でなぞろうとするとき、党も派も主義もなく、世界を眺めようとする眼が覚める。

 

「パッシング」ネラ・ラーセン

パッシング/流砂にのまれて』ネラ・ラーセン

  (鵜殿えりか訳、みすず書房、2022年)

 

昨年Netflixで配信された、レベッカ・ホール初監督作『PASSING―白い黒人―』の原作。

 

「パッシング」とは、肌の色の白い黒人が自らを白人と称して行動する実践を指す。公民権法成立以前のアメリカでは、社会生活のあらゆる局面で黒人に不利な法律・制度・習慣が残存していた為、そのような行動を採ることで自らの望む自己実現を図ろうとする者がいたという(本作が出版されたのは1929年)。パッシングの仕方や程度はさまざまで、単発的に行う者もいれば、身近なものにだけ素性を明かしている者、完全に黒人社会と訣別して白人として生きる者など、人それぞれ。本作の主人公アイリーンは単発の「パッシング」によって白人専用ホテルで休憩しているとき、幼なじみのクレアと再会するが、クレアは完全に白人として生きる「パッシング」者であった。

 

極めて特殊なケースのようでいて、アイリーンやクレアの心理には普遍性がある。排除への恐怖のみならず、自らを偽ったり本性を隠蔽することで防衛を図ろうとする心理は、あらゆる差別に共通するものだと改めて思う。例えば、島崎藤村の『破戒』で描かれた社会状況とも通じるし、同性愛における「クローゼット」の存在など、文学や映画などで繰り返し描かれてきた物語との類似を感じた。しかし、本作で描かれる「パッシング」には、本来視覚的(=一目瞭然)と思われている差異が「見えない」ことを利用して「隠す」という特異性がある。小説で読むほうが想像しやすいようでいて、実際は困難だったりもする。どのような人物を頭のなかで思い描けば良いかが難しいからだ。映画版では、それなりの説得力を持たせることに成功しているが、それ以上にスタンダードサイズのモノクロ映像というフォーマットによってもたらされる或る種の「おとぎ話」性が、「パッシング」によって獲得しようとした擬似的世界の造成感を巧みに醸し出している。

 

作者のネラ・ラーセンは、白人の母と黒人の父の間に生まれたものの、その父は彼女の生後まもなく亡くなった。そして、白人の母はまもなく白人男性と結婚し、ネラ・ラーセンには妹ができる。つまり、一家四人のうち、ネラ・ラーセンのみが黒人だったのである。そのことで、父や妹からつらい仕打ちを受けたと、のちに作家は語っていたそうだ。

 

「パッシング」によって白人として生きているクレアは、アイリーンとの再会によって黒人社会に対する強い郷愁に誘われ、アイリーンの家に出入りするのみならず、黒人たちの集いにも顔を出すようになる。つまり、クレアは二つの社会を手に入れたような状態だとも言える。が、それはどちらの社会をも失う可能性と背中合わせ。黒人であり白人でもあるという夢のような二重のアイデンティティを手に入れたクレアに対して、アイリーンの想いは複雑さを増す。そこには、アイリーンのなかにクレアに対する同性愛的感情の芽生えがあり、多層的に禁忌な感情が嫉妬や羨望と相まって、アイリーンの内面の桎梏となっていくという解釈もあるだろう(「訳者解説」ではそのような指摘がなされていた)。ただ、作中において具体的な描写がある訳でもないので、そうした解釈だけに収斂してしまうとテーマを矮小化してしまう気もする。

 

アイリーンはクレアのなかに「自分がなりたかった自分」を見出してしまったことによって、自分が無意識に否定し続けてきた願望に気づいてしまったのではないだろうか。とはいえ、彼女にとって重要なのは冒険ではなく、あくまで安全であり安心である。

 

「(アイリーンは)自分にとって人生でもっとも重要であり望ましいものは「安全」なのだ、と気づいた。他のどんなものとも、他のものすべてとだって、それと交換しようとは思わない。わたしは平穏な生活がほしいのだ。ただそれだけ。何にも悩まされることなく、息子たちと夫の人生を最良の幸福へと導かせてもらいたい。ただそれだけ。」(157頁)

 

それを達成維持するために犠牲にしているものがあるとは思わなかった。というより、気づきたくなかった。そういった心理は、自分の息子が疑問に思った黒人差別の現実を「知らせない」(隠す)ことで安心の状態を少しでも永らえさせようとしたアイリーンの態度にも顕著なように思う。しかし、臆病になるということは、それだけ失うものがあることを自覚しているからであり、そうした恐怖に負け続けている自分の不甲斐なさを識ると同時に、それを乗り越えなければ手に入らない境地への憧れを封印し続けて来ていることもどこかで気づいている。そんなアイリーンの現前で、自分が「選べない自分」を生きているクレアは、アイリーンに誘惑と後悔が渦巻く葛藤へと突き落とす。だからこそ、このままそんなクレアを生かし続けるわけにはいかない。しかし、密告など絶対にできない。

 

「わたしにはクレアを裏切ることができなかったのだ。罵倒されている同胞を弁護しているようにみえる危険を冒すことすら、できなかった。それもこれも、そのように弁護することが、わずかでもクレアの秘密の暴露につながることを恐れたためなのだ。わたしにはクレア・ケンドリーに対する義務がある。わたしたちは人種という絆で固く結びつけられているのであり、クレアがどんなにそれを拒絶しようとしても、けっして完全には切り離すことができないのである。」(69頁)

 

「異なってはいるが、同時に同じものである二つの忠誠心のあいだで引き裂かれていた。つまり、自分自身と、そして自分の人種への忠誠心とのあいだで。人種。それこそがわたしをがんじがらめにし、窒息しそうにさせているのだ。どんな手段を取ろうとも、あるいは何をしなくとも、何かは壊れるだろう。人間のほうか、人種のほうか。クレアか、わたしか、人種か。あるいは、三者すべてが壊れるかもしれない。これほど完璧な皮肉はない。そうアイリーンは思った。」(140頁)

 

最終局面で訪れた修羅場において、そんなアイリーンがとった行動、それに対する彼女自身の認識。それらは明確な事実としては提示されていない。しかし、それは一元的でないというだけであって、どのような次元や層においても確実に言えてしまうような強さで「真実の心」を暴く結末でもある。そこまで丹念に積み重ねてきた内面の逡巡を無化するかのような無意識の暴走。そして、その不可解さ。見事な助走と跳躍、落下する決着。