『体はゆく できるを科学する〈テクノロジー×身体〉』伊藤亜紗(文藝春秋)

体はゆく できるを科学する〈テクノロジー×身体〉 | 伊藤 亜紗 ...

 

本書の目的は、「できるようになる」ことの不思議さや豊かさを改めて想起させ、能力主義(「できる=すぐれている」「できない=劣っている」といった価値観)によって奪われてしまった「できる」の醍醐味を取り戻す。そのために五名の研究者(古屋晋一、柏野牧夫、小池英樹、牛場潤一、暦本純一)との対話を通じて筆者が気づいたり考えたりしたことが記されている。それらの内容の原点として、筆者は次のような事実を重視する。

 

結論からいえば、私たちは、自分の体を完全にはコントロールできないからこそ、新しいことができるようになるのです。(8頁)

 

「できなかったことができるようになる」とは、端的に言って、意識が体に先を越される、という経験です。つまり、「できるようになる」の中に、すでに「負け」があるのです。不意にできてしまってから、「ああ、なんだ、そういうことか」と分かる。本書で具体的な事例を通して見ていくように、困難なことができるようになるとき、意識はあとから遅れてついていっています。(11-12頁)

 

第1章では、体の動きに注目してピアニストの演奏技術を助ける方法を研究している科学者・古屋晋一の活動が紹介されている。エクソスケルトンという器具を手に装着することで、本人の意志と切り離して指を動かすことのできる。その経験によって、器具を外した後も本人の技術に向上が見られるという。「こうすればうまくいく」(といった既存のイメージ)の外に対する感度を高め、一度も成功したことがなかったからこそ持てなかった動作のイメージを与えることで、イメージすることのできなかった領域へと体を連れ出す。そして、体に先を越された意識は「あ、こういうことか」という感想に至る。

 

技術偏重の古いピアノ教育においては、体を透明化することが目指されてきたという。「音楽をさまたげない体」が良しとされ、「その体だからこその音楽性」は求められない。しかし、ショパンが残した次のような言葉が紹介されている。「指の力を均等にするために、今までに無理な練習がずいぶんと長い間行われてきた。指の造りはそれぞれに違うのだから、その指に固有なタッチの魅力を損なわないほうがよく、(・・・)逆にそれを十分生かすよう心がけるべきだ」。

 

一般化や普遍化を通じて得られる知識や技術こそが科学の根幹を支えているとはいえ、そうした発想を前提に身体そのものと接するならば、個別の身体に対して均質や模範を見いだそうとする思考からは免れ得ないだろう。そして、身体活動を考える際にも、身体のもつ固有性より、一般的(模範とされる)身体が産み出す活動が「あるべき」形として提示される。それは「その体」が為し得る最高の活動なのだろうか。素晴らしい歌が「その声」を活かしたものであるように、素晴らしい演奏も「その指」「その体」を活かしたものであるはずなのだと改めて思えた。

 

第2章では、桑田真澄のピッチングフォーム解析から話が始まるのだが、同じように30回投球してもらった結果、その投球フォームは毎回違っていた。1球目と30球目では、リリースポイントが水平方向に14センチもずれていた。しかし、球が飛んでいった先ではキャッチャーが構えたところに同様に届いている。つまり「重要なのは「パフォーマンスが毎回同じ」(機械的な再現性)ではなく、「結果を同じにするためのパフォーマンスを変える」(変動の中の再現性)」なのだという。哲学者のヒューバート・L・ドレイファス曰く「上級者段階の行動は合理的、プロは過渡的、エキスパートは没合理的」(『純粋人工知能批判』)なのだ。

 

第3章、第4章でも興味深い研究内容や技術的成果の説明が続き、第5章では研究から導き出される(本書全体を包括するような)身体論が展開されている。身体がもつ自己性と他者性の往来、狭間、関係性がもつ多様な不思議と発見が、事実に基づきつつも、思考の汎用性をもって語られる。筆者も志向する文理共創的なアプローチが、自然な気づきと個人的な好奇心を伴いながら試みられていく。

 

能力主義が退屈なのは、「できる/できない」を優劣として考えてしまうからだけでなく、「できる=すぐれている」「できない=劣っている」という思考の持つ硬直、静的な視点にあるのかもしれない。人間が生きるとき、そこで起こるべきは動的な「できるようになる」だし、「できないようになる」という動的変化だってあるはずだ。人間の身体が変化と共にあるという現実は、「できる」の形が変化するという事実を生み、その事実から私たちは自分のなかに流れている時間を識ることができる。自らの脳が知り尽くすこともコントロールすることもできない領域が大きい身体のリアルを、テクノロジーという外部化した人間のもう一つの脳の営為が教えてくれる。そもそも、人間ができることとできないこととの線引き自体曖昧、いや無用なのかもしれない。