『「気の持ちよう」の脳科学』毛内拡(ちくまプリマー新書)

気の持ちよう」の脳科学 (ちくまプリマー新書) | 毛内拡 | 科学 ...

 

著者は「もうないひろむ」と読む。専門は神経生理学、生物物理学。

 

「はじめに」の冒頭で筆者は言う。

「心の病は、心の弱さのせいではない。脳という臓器の疾患だ。

 これが本書を通して僕が一番伝えたいことだ。」

 

心に起こる変化はすべて身体のメカニズムによって引き起こされるといった原理を丁寧に解説してくれるのだが、だからといってその説明から(書き手および読み手の)心情を排しているわけではなく、単純に即物的あるいは唯物的になることなく、時に唯心的な発想も受け容れつつ語られる。しかし、心の変調を「個人(の心)」の責任に帰して終うような姿勢への疑問を呈し、程度の差という個人差はあれど、普遍的な(人間に共通な)因果関係を解き明かす。

 

前半から中盤にかけては、そうした原理の解説が続くが(とてもわかりやすい)、終盤(第6章「気の持ちよう」と考えてしまうワケ、第7章「気の持ちよう」をうまく利用する、第8章「わたし」ってなんだろう)には筆者の観点による考察や提案が収められており、そちらはより興味深い。

 

ソーシャルゲーム(の「ガチャ」)にハマってしまう人に共通して見られる二つの性質の指摘が面白い。それは、「そういうアイテムや演出を全て集めたい、全て見たいと思ってしまうコレクターとしての性質」と「レアなアイテムを手に入れたことを他の人に自慢して、褒めてもらいたい、注目を集めたいと思ってしまう性質」。これって「○○狂」的なマニアにはいずれも共通するような性質だったりして、「自分自身が楽しむ」ことが本来の目的であったはずが、その目的とは無関係な方向に発展した満足を追求するようになってしまう事態の要因になっていると痛感。自分の身にも覚えがある性質で、「嗜む」のあり方を見つめ直すうえで示唆に富んだ指摘に接した思いがする。

 

もう一つ筆者の提案で面白かったのが、「自己肯定感よりも自己効力感を重視しては?」というもの。「自分が何かをしたということがしっかりと周りに影響を及ぼしているという実感のこと」が「自己効力感」という感覚だというが、そのためには他者への影響や他者からの評価のみならず、ToDoリストが一つ減ったといったものによる効力感も有効だとしている。そうすれば、他人に肯定される必要もなく、自他の優劣に固執しなくなることで人間関係も円滑になる。つまり、「周りに影響を及ぼす」の「周り」が他者に限定されず、むしろ今の自分の周り(少し後の自分)だったりすることで、自分の行動の効果や影響、評価といったものも予測できたりコントロールしやすくなる。本書でも書かれていたことだが、他者の評価をどう捉えるかも結局は自分次第であるとするならば、根本的には自分による自分への評価が重要だとも言える。その発想を根底に据えられれば、自己肯定感を高めたりする必要はなく(高低というのは他者を意識した相対的発想)、単純に自分にとっての効き目を感じられればよしとする発想が肝要になってくるのかもしれない。

 

そんな「気の持ちよう」をただ否定するのではなく、「気の持ちよう」と考えてしまう自分を活用する発想が本書の肝になっている。ただ、正しく活用するためにはやはり誤った認識を正したり、わからないことをわかった気にさせる説明から脱することが大切であることも、本書では十分に説明されている。

 

『時ありて』イアン・マクドナルド(早川書房)

時ありて | イアン・マクドナルド, 下楠 昌哉 |本 | 通販 | Amazon

原題:TIME WAS(下楠昌哉 訳)

 

「古書ディーラーのエメット・リーが、閉店する書店の在庫の山から偶然手にした詩集『時ありて』。凝った造本の古ぼけた詩集には、一枚の手紙が挟まれ、エジプトで書かれたと思われるその手紙には、第二次大戦下を生きた二人の男、トムとベンの人生の破片が刻まれていた。エメットはその手紙に隠された謎を追ううちに、二人の男の人生の迷宮を彷徨うことになる。

英国SF界きっての技巧派として知られるマクドナルドが、歴史の襞に取り込まれた男たちの人生を綴った傑作。」

 

「時を超えて彷徨う二人の男の物語。英国SF協会賞受賞作」とのコピーを読んで、本書を読み始める。時を超える二人の男について知ろうとする主人公は時を超えられないが、空間を超えるように電子ツールを駆使する。そこで収集された情報が時を駆け巡っては、トムとベンの後を追う。SFという響きからは、未知なる装置による現象を想像するが、本書におけるそれは、そうした印象とは一味違い、詩情揺蕩う淡々とした旅路。150頁ほどの単行本に収められた中編は、時空を何度も超える重層性をたたえつつ、あくまでも一つの場面として切り取られた主人公の心の旅。

 

主人公のいる時空は現代なのだが、文体のせいか、クラシカルな佇まいが物語全体を包んでいる。古書ディーラーという職業の現代性も、扱うのが紙の本、そして古書という点で、容易く時空を超える電子の世界とは対照的なアナログな手触りを遺してる。そうした相反する性質のすれ違いと交差するかのように語られる、手紙のなかの物語。そして、その手紙が挟まれていた詩集『時ありて(Time was)』。そして、その物語のタイトルは、『時ありて(Time was)』。時間はいくつも内包され、過去(was)となった存在(being)は、現出することで新たな生を受ける。時とは絶対的に存在するのか。それとも、人がいるところに時は存在するのか。時が主語である詩集には、人が主語となる物語の扉があった。

 

本書の物質感は掌中に幸福をもたらす。中編独自の厚さというか薄さ。カバーを外すと現れる本体の色。不釣り合いなまでに太いスピン。店舗を持たない(実物と触れる場のない)古書商が主人公であるのに、いやそれゆえに起ち上がってくる本や紙の実在感。その「反動」を凝縮したかのような存在になっている物体としての本書を愛おしく感じつつ、掌中の書物を見つめ続けた数時間だった。

 

『読書道楽』鈴木敏夫(筑摩書房)

読書道楽/鈴木敏夫|boox

 

鈴木敏夫という人物に改めて興味を持ったのは、書籍『ALL ABOUT TOSHIO SUZUKI』に触れてからで、それは同時に、物事に取り組むときの自覚的な「編集」という観点の獲得にもつながった。鈴木敏夫の仕事の流儀は彼ならではものだし、決して真似などできないのだが、彼の語り口には多分に教育的な親切があふれている。高畑勲と宮﨑駿という「そのままでは届きにくい」天才たちを、見事に受容されるべき形へと成就させてきた彼の手腕に、必然的に宿った習性なのかもしれない。

 

『ALL〜』でも感じたことなのだが、鈴木敏夫は相手が未知の作品を紹介し、興味を持たせることが巧い。それはおそらく、彼が作品に触れる際に読者(観客)として受けとめることのプロフェッショナルだからなのだと思う。一個人としての受容を洞察する能力、メタ認知的に「読者である自分を常に意識する」感覚で読んできたことがわかる。その視点があればこそ、作品の「届き方」を精確に推測したり把握することができる。それがプロデューサーとして「届く」作品に仕上げ、「届く」仕掛けを作り上げる原動力となってきたのだろう。

 

と同時に、直接的な交流が困難な天才たちを理解するためにも読書する。加藤周一レヴィ=ストロースを読むことで、高畑や宮﨑との意思疎通が可能になったといった事実。そこへ向かう発想と実践。天才との共同作業に、第三の天才を介して理解を図る。きわめて贅沢で幸福な読書体験の在り方を見いだすが、実は私たちが天才に「触れる」には、そういった方法しかないような気がしないでもない。

 

本書タイトルは「読書ハ道楽ナリ」のはずだが、内容を読んでいると「読書道ハ楽ナリ」とでも解したくなる。そこに明確な〈道〉が生まれてこそ、歩むことへの楽しみは生まれるものであり、楽しみがあるからこそ歩きたくなる。歩く道によって、歩いた距離によって、いま立っている場所がわかってくる。立ちたい場所に行くための道もまた、わかってくる。読書という道行きは、精神の彷徨であり、方向なのだろう。