『読書道楽』鈴木敏夫(筑摩書房)

読書道楽/鈴木敏夫|boox

 

鈴木敏夫という人物に改めて興味を持ったのは、書籍『ALL ABOUT TOSHIO SUZUKI』に触れてからで、それは同時に、物事に取り組むときの自覚的な「編集」という観点の獲得にもつながった。鈴木敏夫の仕事の流儀は彼ならではものだし、決して真似などできないのだが、彼の語り口には多分に教育的な親切があふれている。高畑勲と宮﨑駿という「そのままでは届きにくい」天才たちを、見事に受容されるべき形へと成就させてきた彼の手腕に、必然的に宿った習性なのかもしれない。

 

『ALL〜』でも感じたことなのだが、鈴木敏夫は相手が未知の作品を紹介し、興味を持たせることが巧い。それはおそらく、彼が作品に触れる際に読者(観客)として受けとめることのプロフェッショナルだからなのだと思う。一個人としての受容を洞察する能力、メタ認知的に「読者である自分を常に意識する」感覚で読んできたことがわかる。その視点があればこそ、作品の「届き方」を精確に推測したり把握することができる。それがプロデューサーとして「届く」作品に仕上げ、「届く」仕掛けを作り上げる原動力となってきたのだろう。

 

と同時に、直接的な交流が困難な天才たちを理解するためにも読書する。加藤周一レヴィ=ストロースを読むことで、高畑や宮﨑との意思疎通が可能になったといった事実。そこへ向かう発想と実践。天才との共同作業に、第三の天才を介して理解を図る。きわめて贅沢で幸福な読書体験の在り方を見いだすが、実は私たちが天才に「触れる」には、そういった方法しかないような気がしないでもない。

 

本書タイトルは「読書ハ道楽ナリ」のはずだが、内容を読んでいると「読書道ハ楽ナリ」とでも解したくなる。そこに明確な〈道〉が生まれてこそ、歩むことへの楽しみは生まれるものであり、楽しみがあるからこそ歩きたくなる。歩く道によって、歩いた距離によって、いま立っている場所がわかってくる。立ちたい場所に行くための道もまた、わかってくる。読書という道行きは、精神の彷徨であり、方向なのだろう。