『製本屋と詩人』イジー・ヴォルケル(共和国)

製本屋と詩人 | 本屋lighthouse

(大沼有子 訳、2022年)

 

本書には、「二十世紀のチェコを代表する革命詩人、イジー・ヴォルケル(1900−24)が、二十四年足らずという短い生涯のうちに数多く遺した物語や詩などから、訳者が選んで収録」されている。「日本でヴォルケルの作品がまとまって紹介されるのは本書が初めてのこと」らしい。Ⅰ部「物語」には、生前に雑誌や新聞に発表された五つの短篇小説が収められ、Ⅱ部「詩」には十代で書いた詩3編と生前に出版された二つの詩集からの詩21編、計24編が収められている。

 

キリスト教の風土で育ち、ロシア革命の影響やチェコの労働者が当時おかれていた状況への見聞からチェコスロヴァキア共産党に入党したり、チェコアヴァンギャルドグループ「デヴィエトスィル協会」のメンバーになるなど、「世界の不正をただしたい」といった強い思いが作品の根底に流れていることが伝わって来る。

 

ヴォルケルは22歳の夏に肺結核の兆しが現れ、いったんは回復するも、翌年には療養所へ入院。その後も病に重ねておかされ、寝たきりとなった彼は故郷で何とか1924年を迎えたものの、1月3日に息をひきとることに。そんなあまりにも早すぎる死は、死後の彼の評価にもさまざま影響を与えたようだが、何よりも作品に注がれた情熱の瑞々しさが閃光のように読む者を貫いてゆく。チェコの「モダン童話」がはじまるきっかけの一つになったのではないかと訳者が語るヴォルケルの物語は、子供にも大人にも「違うけど同じ」気づきを提示してくれる寓意に富んでいる。また、詩にもそうした物語性は宿っており、寓意の精度が研ぎ澄まされる。

 

物語的ではない詩でも、ヴォルケルの言葉は透徹としつつ感性が迸る。

「目」という詩は次のように始まる。

 

「世界で一番広い海 それは人間の目

   目は世界をまるごと運ぶことができる

   幾千もの船に乗せ 全世界をその水面に浮かばせる——

   星も花も鳥たちも 町も工場も人びとも

   存在していたものすべて いま存在するものすべて

   そしてこれから現れるであろうものすべて」

 

そして、最終連。

 

「世界で一番深い海 それは人間の目

   その底は心まで到達する。

   目に沈没したものたちは心臓へと侵入し

   心に根を張り 心を支配し

   その異界の恐ろしさと美しさで

 深く心にとどまるために錨をおろす

 それは世界のなかで最も力を持つ美しさだ。

 だから決して君を甘やかしはしない

 そして君の内気な感性を

 弾丸と炎と鋼鉄に変えて

 装弾する。」

 

『White Eye(白い自転車)』Tomer Shushan

原題:White Eye

監督:Tomer Shushan

 

ブリリア ショートショートシアター ONLINEにて観賞。(1月11日まで配信

 

アカデミー賞の短篇映画賞にもノミネートされた本作。20分弱の本編はワンカット。夜のT字路で交錯する人生が語る「正義」の不条理。短篇という形式、長回しという手法、それらが物語る内容の密度を高めた傑作。

 

盗まれた自分の自転車を発見し、取り戻すために警察に相談したり、近くに居た男に助力を仰いだりしているうちに、その自転車の現在の「持ち主」が現れる。ショートフィルムは、人物にしろ状況にしろ説明がない/少ないことが、弱みにも強みにもなる。本作ではそれが訴求力となって観る者をその場に立ち会わせ、主人公の青年を追うカメラは私たちの眼となり足となる。長回しはカメラが映し出す対象への凝視に集中するのみならず、凝視の外部になった世界で起こった事柄を事後的に提示する。その遅れは視ることがもつ犠牲を突き付ける。視点や視野が必然的にもつ盲点、つまり無意識の排除の力を感じる。

 

自分の感知し得ぬところで起こっている悲劇は、自分が関知しないで済んできた現実であるから、存在していない裏側だった。自らに起こった悲劇(自転車を盗まれた)こそが自らの感知する全てであったからこそ、迷いなく正義を主張できたのだが、それはあくまで社会の一断面に過ぎなかった。「全知」たる警察に助けを求めたとき、自らが関知しない「正義」の裁きが発動する。視点が行為の当否を決めることを、ワンカット=単一視点の継続として立ち会ってきた自分たちの現実から識る。

 

青年が最後にとった行動は、結果だけが示される。想像することが課せられる。判断の根拠は視点の在処に求められる。しかし、もう青年はいない。視点が落ち着くべき場所などもう、何処にもない。

 

White Eye (Short 2019) - IMDb

『PACHINKO/パチンコ』コゴナダ、ジャスティン・チョン(Apple TV+)

海外で高評価!Apple TV+「Pachinko パチンコ」ひとりの女性 ...

原題:Pachinko

監督:Kogonada(第1話〜第3話、第7話)

   Justin Chon(第4話〜第6話、第8話)

音楽:Nico Muhly

撮影:Ante Cheng(『ブルー・バイユー』)

   Florian Hoffmeister(「Tár」

 

以前、一年間無料でApple TV+が見られたにも関わらず、見逃したままだった本作。年始の無料開放にてようやく見た。

 

コゴナダとジャスティン・チョンという注目の二人が4話ずつ監督を務めている上に、音楽はニコ・ミューリーだし、撮影は「Tár」で大注目のフロリアン・ホーフマイスター。そうした協力スタッフによって構築された作品世界に魅了されないはずはなく、長めの映画一本を観る感覚で全8話を駆け抜ける。

 

1989年と過去(1915年、1931年)を往き来しながら進んでいく本作だが、ジャスティン・チョンが監督を務める第4話〜第6話と最終話においては、とりわけ二つの時代/世界の交錯がより密接にリンクして語られる。一方、コゴナダが監督をしている第1話〜第3話においてはふたつの世界があくまでそれぞれ自律しているように並行して描かれる。また、第7話においては往来が全くなく、1923年の横浜を舞台として関東大震災における朝鮮人たちの悲劇が描かれる。(この第7話だけはビスタのサイズになっている。しかも、上下黒帯のシネスコの左右を縮めた形でのビスタなので、一話まるごと所謂「額縁」状態になっている。『アフター・ヤン』でも作品内で画角変化を用いていたコゴナダ。個人的には作中での画角変更はあまり好きではない。安直な手法のように思えることが多いし、そもそも作品への没入感が削がれたりするからなのだが、コゴナダ監督が気に入っていて今後も多用するとしたら厭だなと思ってしまったりした。)

 

本作では随所に日本人による朝鮮人への抑圧・差別・暴力的態度などが描かれているが、そこに余計な感傷などが入り込んでいないからか、史実としてすんなりと入って来る。「日本人が朝鮮人を」といった固有性を超越した普遍的な社会的暴力の現実がそこにあるからかもしれない。しかし、それ以上にそれらによって踏み躙られまいとする凜然たる矜持のしなやかさこそが作品に刻み込まれているため、単なる啓蒙や教育としての提示とは次元が異なっている。とはいえ、第7話において、関東大震災朝鮮人が大量に殺害されたという史実の映像化を初めて観るとき、映像によって過去の事実が「肉付け」されることの意義を深く感じた。物語という形式で、映像という手段によって、事実が語られる意義があるからこそ、こうした映像作品は絶対に必要なのだと改めて認識した。

 

ミン・ジン・リーによる原作では1910年から1989年までが経時的に語られているようであり、また映像化によって削られているエピソードも多々ありそうなので、原作に触れると本作で描こうとしていること(意図)がより理解できそうだ。

 

撮影場所や使用言語の都合上、日本語ネイティブのキャストは少なく、日本語の場面ではその発音等にやや違和感はあるものの、ほんのわずかしか日本語を喋る場面がないユン・ヨジョンの日本語が見事なもので、その自然さは演技力と人間力の賜物なのだろうと感動した。彼女が演じるソンジャの若き日を演じたキム・ミンハも素晴らしかった。難しい役どころを演じきったイ・ミンホは本作で役者としての評価を上げ、大きく飛躍していきそうだ。

 

またオープニングの映像は、『アフター・ヤン』における冒頭のダンスシーンを思わせるもので、コゴナダ監督によるものかと想像したが、どうだろう。

 

主人公の息子が財を成した「パチンコ」がタイトルとなっている本作。パチンコ屋で、玉が出る出ないは釘次第といった会話がなされる場面がある。パチンコ玉を人間(個人)と見るならば、所詮ひとりの人間など釘の操り(社会や権力者の力)に翻弄されるしかない定め。釘が変わらない限り、玉(個人)の運命はどう足掻こうが同じ結末。しかし諦めなければ時として、重力の気まぐれを手繰り寄せられもするだろう。そうやって人生は踊り出す。