木原千裕「Wonderful Circuit」

 

作家や展示内容についてよく知らず、チラシのメインビジュアルである写真に引き付けられて足を運んでみると、その写真の地(チベット高原カイラス山)を作家が訪れることになった「物語」があり、それこそが今回の展示を駆動していることを知る。

 

「木原千裕は、恋人の僧侶との関係を彼女が所属する寺から拒絶された出来事をベースにした「Circuit」で第23回写真「1_WALL」グランプリを受賞」し、それから約1年間の制作期間を経て開催されるのが本展。「恋人であった僧侶を被写体とした作品や、寺の法要風景、仏教を含む多数の宗教で聖地とされるカイラス山の巡礼路で撮影した写真、地元福岡を撮した作品などを展示」しているが、その組み合わせ、並びからは豊富な含意が読みとられ、見る者もまた思索の旅へと誘われる。

 

 

 

「寺に拒絶された葛藤から信仰による救いとは何か、人間の尊厳とは何かを考え、巡礼の旅を通して、また写真と向き合うことで自身を発見していきました」と語る作家が提示する〈物語〉は、いくつかの次元が一つのフォーマットに混ざり合い、やがてそれら各々が持つ意味が深められてゆく。

 

カイラス山への道のりを思わせるシークエンスに現れる「(自動車の)タイヤ」を凝視する写真。「circuit」、〈巡回〉。同じ巡りを反復しながらも、必ず地面を移ろうタイヤ。究極の対照性をたたえる形状、円。多数の宗教で聖地とされるカイラス山、複数の信仰で共有される聖地。差異は普遍へと収斂されてゆく。枝葉がひとつの幹へ、同じ根へ。そこには伽藍も法衣もない。目の前に広がるのは、岩と雪。すべての人間に平等な、あるいは自由な意味もしくは無意味。

 

〈信仰〉という概念、不可視であるはずの内面的な現象。それを写真という視覚表現で捉えよう、思考しようとする試み。中盤には、カイラス山の光景、日本の寺における法要風景、日常的な街の光景が混在した一面がある。そうして提示されたとき、〈信仰〉が在するもののようには思えない。人間同士の営みのひとつとして法要は利用され、雄大な自然は人智などに関心を示さない。誰もが互いの思想など窺い知れるはずのない街中の人混みに潜むマルチバースな「信じる」。おそらく〈信仰〉とは本来、人間がいるところに在するものなのだろう。

 

しかし、だからこそ、自分の「信じる」と違う「信じる」は〈信仰〉のように思えない、思いたくないのかもしれない。何気ない「一本の木」が映っている一枚の写真を見たとき、そこに信じるに足る何かが映っていると見る人と、何も感じない人。そのどちらもが正しいにも関わらず、自分の「感じる」しか信じられない。だから拒絶してしまうのか? 拒絶を続けるから信じられるのか? そうして得られる「信じる」は〈信仰〉に足るものだろうか。

 

「circuit」には、まわり道といった意味もあるらしい。信仰の本質とは、直線的距離にはなく、寄り道を重ねる道のりのなかに生まれるものかもしれない。驚嘆に充たされた迂回路を辿ったときに不図、心をよぎる。

 

木原千裕「Wonderful Circuit」  

会場:ガーディアン・ガーデン

(日曜休館・11:00〜19;00・入場無料)

6月25日まで