美は語る 激動のウクライナ

日曜美術館(Eテレ)2022年4月17日放送

 

出演者:小野正嗣柴田祐規子

鴻野わか菜早稲田大学教授)、青柳正規東京大学名誉教授)

 

 NHKのアーカイヴからウクライナの美術に関する映像が紹介されていく。

 ウクライナに住む人々のルーツは、スキタイという遊牧騎馬民族であり、彼らは紀元前7世紀から500年以上、文字を持たず、記録も残さなかったというが、栄華を誇ったと思わせる宝物が多く出土している。金の重さが1kgを超える首飾りの贅の尽くされっぷりには目を見張るものがあった。

 9世紀、「キエフ・ルーシ」と呼ばれる国家が誕生するも、その統治は緩やかな連合体としてだった。中央集権による統一的な国家とは全く違うものだったのではないかと考えられており、その地域は現在のウクライナベラルーシ、そしてロシアに跨がっていた。聖ソフィア大聖堂の壮麗さには、統率された伝統では掬いきれない美の横溢がある。

 近代史におけるウクライナの数奇な運命の象徴として、西部の都市リビウが辿った「国籍」が紹介されていた。

1867年 オーストリア=ハンガリー帝国

1921年 ポーランド第二共和国

1945年 ソビエト社会主義共和国連邦

1991年 ウクライナ共和国

 

 18世紀半ばにウクライナで活躍した謎の彫刻家、ヨハン・ピンゼル。どこで生まれ、どこで学んだのかも不明だというが、彼の手による木造彫刻には、王道的な佇まいを一切拒否したような自由さがある。ヨハン・ピンゼルの「ピエタ」を見て青柳正規氏は、「ミケランジェロピエタが韻文だとすれば、ヨハン・ピンゼルのピエタは散文だ」と評していた。前者が悲しみの普遍的抽象化を目指したものだとすると、後者はあくまでマリアという個人の苦悩や悲哀が具体的な身体を通して表現されている、と。確かに、権威のための表象としてミケランジェロピエタは、ヴァチカンの威光と見事に呼応する。一方、ヨハン・ピンゼルのピエタはどこまでも無名性に佇んでいる。聖母ではなく、あくまで一人の母である。

 

 思えば、ウクライナという存在が、ロシアという大国にとっては不都合な〈個〉だったのかもしれない。世界の歴史を眺めれば、自由な存在は常に妬みや羨望の的になりがちで、前述のような来歴のウクライナは、〈近代性〉にとって相容れない存在と認定されてしまう宿命にあるのかもしれない。中央集権を秩序の基盤と考える(考えたい)体制にとっては、多様性や流動性は極めて不都合な要素なのだろう。だからこそ懸命に、それらを周縁や辺境として扱おうとする。しかし、そうした抑圧や緊張によって保たれてきた近代の構造は、少しずつ限界を迎えつつあるように思う。一昨年のヴェネツィア国際映画祭のグランプリ、そして昨年度のアカデミー賞は、『ノマドランド』だった。ただ、あの主人公をどう捉えるかによって、近代性の「余命」診断は全く異なりもするだろう。