『フォンターネ 山小屋の生活』パオロ・コニェッティ

『フォンターネ 山小屋の生活』パオロ・コニェッティ

  (関口英子訳、新潮社、2022)

30歳になった僕は何もかもが枯渇してしまい、アルプスの山小屋に籠った。都市での属性を解き放ち、生きもの達の気配を知り、五感が研ぎ澄まされていく。世界的ベストセラー『帰れない山』の著者が、原点となった山小屋での生活と四季の美を綴る。コロナ時代に先駆け二拠点生活を実践してきた著者の、思索に満ちた体験録。(新潮社Webサイトより)

 

 頁数。そのページをあらわす数字。これほど現実の時空を思わせる野暮な記号もない。映画を観ているときに時計を見てしまうようなもの。だから、この本を読むときには「ページ数」を指で隠しながら読む。そして、隠しやすいレイアウトの新潮クレストブックス。生成に近い色の紙がよい。

 

 著者が山小屋生活で交流した人物の一人、レミージョ。彼は山村育ちで中学までしか出ていなかったものの、四十歳になってから古典に目覚め、今はサルトルカミュ、サラマーゴを読んでいるという。「都会の高校生だった僕は、教養あふれる作家たちを拒絶し、路上やフロンティアを描いたアメリカ文学を偏愛していた」というパオロ(著者)とは「正反対な読書体験」をレミージョが語った中で、彼があるとき気づいた「深刻な己の限界」について言及する。「知っている語彙では自分の思いを表現しきれなかった」。

 それがどういうことか訊き返すパオロに対してレミージョは、自分がずっと方言しか話してこなかったからであると告げる。方言は、「土地や道具、作業、家屋の部分、植物や動物に関しては厳密で豊かな語彙があるのに、感情を表現しようとすると、たちまち貧困で曖昧」になってしまうものだという。レミージョは、「自分の気持ちを表現するには新しい語彙が必要だと思い立ち、それを本の頁に求めるようになった」。「自分のことを語っている言葉を探すために」。

「正反対な読書体験」は、“正反対”に憧れる読書体験でもあった。そして、感情を表す語彙とは、他者に伝えたいと思って豊かになるものなのかもしれない。それは、同調した感情に埋もれていては起こらない衝動だし、感情に起伏がない時にも起こらない。パオロ・コニェッティが都会で疲弊し書けなくなったのも、そんな状況に見舞われたからなのかもしれない。しかし、完全なる他者であれば、共有することはできないのだから、いくら語彙を拵えたところで伝わらない。自己であり他者でもあるもの、それこそが言葉でとらえられるものなのかもしれない。パオロにとっての自然とは、まさにそのような存在だったのだろう。

 

 レミージョの繊細な語彙感覚から著者が及んだ考察が興味深い。

 その箇所を、以下に引用する。

 

 レミージョは「家」という言葉を使わなかった。「家」という概念に対して強迫観念を抱いていたため、自分の家について言及しなければならないときには、持って回った言い方をした。「俺んところに来ないか」とか、「俺の住みか」などと言ったのだ。彼が「俺の家」と口にするのを一度も聞いたことがない。なぜなのか、僕は不思議に思っていた。反対に僕は、どんな場所だろうと住みはじめたとたん、「家」と呼ばずにはいられなくなる。もしかすると、彼は、どこへ行っても「ここが我が家だ」という感覚は持てないのかもしれない。あるいは、山裾全体が、自分の家のようなものだから、どの家だろうとおなじだと思っていたのだろうか。僕は、彼のそんなところが羨ましかった。レミージョは、「家」よりもはるか広大な、森や沢、山の形、峰々によって切り抜かれる空の一部、そこを通り過ぎる季節といったものに属しているのだ。

 

「家」という言葉が持つ安寧さの響きは、その背後に〈所有〉や〈支配〉といった構図が隠れているようにも思われる。それはどこか根を下ろすような感覚が伴うからだろうが、そうやって繋がれていること、傘下にあることをどう感じるかは、育ってきた文化や社会によって大きく異なるだろう。旧弊的発想は地方に残存するイメージがあるものの、「住めば都」という表現からすれば、むしろ都会こそ自分を省みることのない空間なのかもしれない。