『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』フィリップ・ファラルドー

『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』フィリップ・ファラルドー

監督:フィリップ・ファラルドー(Philippe Falardeau

原題:My Salinger year

 

原作も映画もタイトルは《My Salinger Year》。原作の邦題は『サリンジャーと過ごした日々』。内容からすると、「と過ごした」はおかしい。映画の邦題は『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』。固有名詞が「サリンジャー」から「ニューヨーク」に変えられ、「year」は「ダイアリー」に。ここまで全方位的に残念な邦題はきっと、発想が十年以上アップデートされていない古参者の仕業だろうか。フィリップ・ファラルドーが監督してなかったら観ていなかった。

 

ただ、別にタイトルから「サリンジャー」を除いてはならないとは思わない。なぜなら、本作におけるテーマの中心は、「Salinger」ではなく「My」の方にあると思うから(でも、だからこそ、“My”と“Salinger”の関係性が面白いのだけれど)。そして、それは原作よりも映画の方がより鮮やかになっている。フィリップ・ファラルドーの作品は軒並み上映時間が短めな印象だが、本作も実質100分未満で〈一年間〉が一思いに描かれる感じが心地よい。原作にあった様々なエッセンスや分散されていたエピソードが、“一息のドラマ”に見事に散りばめられていて、脚色のお手本のような脚本になっている。

 

本作の主人公であるジョアンナ・ラコフ(原作は彼女の実体験をもとに書かれている)は出版エージェンシーで働き始める。大学でも文学を学び、自身も詩を書いている彼女には、「自分が書く人である」という自負があるはずだが、公私共に「文学の近くにいる自分」で手打ちする。だからこそ、サリンジャーにファンレターを送ってくる読者たちの声は、自分のなかで複雑に木霊する。もはや単なる読者ではない。しかし作家になれるわけでもない。「書く」そのものでも、「売る」そのものでもない仕事。代理人ですらなく、そのアシスタント。でも、本に囲まれ、本に関わる仕事。恋人も小説を書いている。自分は?

 

それほど思いつめた自問自答が折り重なったりしないところは原作とも同じだが、ファンレターの送り主たちがジョアンナのまえに「姿を現す」仕掛けは示唆的だ。一体化する訳でもなければ、対峙するでもない。時には同じバスに乗り合うことも。そこにつきまとう、何か違うような気がする感。「イマジナリー」な彼らに実体を与えようとするとき、彼女のなかの創作意欲は使命と化す。自分がinspirationを感じるべき場所へと旅立っていく、マーガレット(シガニー・ウィーバー)からも、ドン(ダグラス・ブース)からも。

 

ジョアンナ(マーガレット・クアリー)のファッションや事務所内の光景をはじめ、視覚的にも愉しい快適設計で魅せるなか、聴覚的にもフックとなる要素が定期的に投下されている。「ムーンリバー」と「月の光」が絶妙なタイミングとアレンジで、ジョアンナの夢幻を演出する。さまざまな映画を彩って来たふたつの曲の、見事な援用。ジョアンナがマーガレットの自宅からの帰り際、二人の間に流れる束の間の沈黙を彩る、建物が軋む音。古き良き享受にも萌芽する違和。映画の行間を思い思いに「読む」愉しさに溢れている。

 

ジョアンナはサリンジャーを読んだことがなかった。サリンジャーへのファンレターに引きつけられたのは、そこに文学のもつ力が息づいていたから。その力は「書く人」と「読む人」によって生み出されるものであることを、サリンジャーを初めて読んだジョアンナは識る。そんな巡り合わせが最終場面の邂逅へと結ばれたとき、その暗転から新たな物語が始まる。

 

*本作で魅力的な主人公ジョアンナを演じたマーガレット・クアリーは、今後の大いなる飛躍必至の模様。現在開催中のカンヌ国際映画祭コンペティション出品のクレール・ドゥニStars at Noon』に主演。他にも、ヨルゴス・ランティモスの新作、デニズ・ガムゼ・エルギュヴェン(『裸足の季節』、『マイ・サンシャイン』)の新作にも出演予定。昨年Netflixで配信された『メイドの手帖』でも主演している。