『善人たち』遠藤周作

遠藤周作没後25年にあたる2021年の12月、彼の未発表戯曲三本が発見されたことが発表された。いずれも1970年代後半の執筆と目される三本を収録し、単行本として刊行された。

 

「善人たち」の舞台は、日米開戦が間近いアメリカ・ニューヨーク州オールバニイ。かつて高等教育の象徴と言われたこの町に暮す牧師補一家と、そこへ寄宿する日本人留学生の劇ドラマだが、遠藤文学がアメリカのプロテスタント一家を扱うのはめずらしい。しかし何より注目すべきは、登場する人物たちが示す多彩な価値観と人生の様相だろう。牧師になるべく留学した日本人・阿曽の信仰と迷い、牧師補・トムの示す愛、信仰、正義、そして黒人の使用人・コトンが見せる忍耐と欲望、とりわけプエルトリコ人の恋人とニューヨークへ出奔し、愛にやぶれて帰郷した長女ジェニーの述懐には哀切が滲み、その個性と台詞は読む者を惹きつける。(『波 2022年4月号』より加藤宗哉の文章による。新潮社Webサイトより)

 

信仰が人を正しき道に導くものだとすれば、それが正当化の道具へと堕してしまう因子を宿しているのも宜なるかなと思ってしまう。そもそも、正当という概念こそに攻撃性が内包されている。不当なものを排除するための論理であり、方便。どんな宗教であろうとも、それらが辿った歴史に排斥の影がつきまとい、励行すらされてきた事実があることを思えば、信仰がそれ自体であることをやめ、凶器のアリバイづくりに加担させられるという実情を浮かび上がらせる本作に描かれる人間の性情は、誰の心にも潜み、無自覚であればあるほどに蝕みもする。

 

銀行員であるフレッドが自らの昇進のため、日本人の阿曽を家から追い出すことを提案しつつ、自らの発想を次のように説明する。「ぼくは銀行員ですから、ひとつの調和や秩序が乱れるのが嫌ですね。……このロジャース家には秩序がある。オールバニイの町にも秩序がある。善意も道徳もその秩序があればこそ成り立つのです」。それに対して、彼の婚約者キャサリンの姉であるジェニーは言う。「いかにもこの町の人らしい考えだわ。自分の生活が乱されない限りでは握手しあう」。そんな町に息苦しさを感じて町を飛び出したという彼女は、ニューヨークへ行き「憎むことを憶えた」という。フレッドのような「偽善者」を憎むことを。

 

フレッドが憎んでいるもの、それは自分たちにとって都合の好い秩序を乱す存在。そして、そうした存在を憎むこと、それは彼らにとって憎悪ではない。だから、秩序の参画者たちに憎悪など存在しない。“不純”を除去してしまえば、憎悪も消え失せてしまうから。抱き続けることに苦痛を感じる憎悪など一刻も早く消えて欲しい。だから、排斥はなるべく確実かつ迅速に運ばなければならない。その時動員されるのが秩序の快適さであり、その成立の論理的根拠として援用される「神」なのだ。しかし、それはあくまで自分たちの信じる神さまであり、神そのものではない。神の意志を伺うまでもなく、神の意志の窺い知らぬ処でなされる、人間の営みだ。そうした欺瞞について、「秩序や調和を保つ限りはたがいに善意を交換しあう」とジェニーは評す。教会で善意が交わされる「喜劇」においては、「台詞は始めから決まって」おり、「勝手な台詞は許されない」。

 

そんなジェニーは自身もかつて「白人に戻る」ため、「オールバニイの町の人の考えに戻る」ため、プエルトリコ人の恋人を棄てた。そのとき、彼女に向かって恋人は言った。「もう教会で教えているような、あんな砂糖づけのような愛を信じないよ、ジェニー、君も信じるなって。憎しみや敵意のほうを信じろって。そのほうがほんものだって」。そして今、ジェニーは言う。「善意には残酷さなんかない。感傷しかない。でも愛は残酷さもいやらしさも含まれているの」。そして、そんな「愛」を見ている自分を「いやらしい」と言い、「でもこれもやっぱり愛なのよ」と言う。

 

自覚的(自虐的)反逆者ジェニー以外にも、オールバニイの秩序を乱す、つまりオールバニイの嫌悪を喚起する者が登場する。白人にとっては「同じ」アジア人であるベトナムから来たホー。彼は自国を占領するフランスへの憎悪を口にし、そんな自国に進駐した日本への懐疑に言い及び、日本人の阿曽を問い詰める。更に彼は牧師にも問う。「イエスはなぜ、自分の国や民族を植民地にしたローマ人と戦わなかったのか。戦わぬことが正義なのか。あるいはあなたたち米国が、ちがった国と戦う時、この国の基督教徒は、別の国の基督教徒を決して殺さないだろうか」。

 

真珠湾攻撃の翌日教会で、自分の国が嫌いだと述べた阿曽は、「じゃあ、君はもし日本に戻って、この米国人と戦えと命令されても、戦わない勇気があるのか」と問われる。「わかりません」と答える阿曽に「あんたは卑怯な男だよ」「あんたは男じゃない」との言葉が返される。すると阿曽は言う。「そうです。ぼくは卑怯です。卑怯だから、この町に来ても、あなたたちに好かれるように良い子を演じたんです。良い黄色人種を演じたんです。あなたたちに気に入られるためです。いつか、ここに印度支那の学生が来ました。彼はしかし、決してみなさんの前で良い子にならなかった。自分の主張をはっきりと言った。そして皆さんに嫌われました。だが、ぼくにはそんなことができなかった。そんなことをすればトムの善意を傷つけ、ぼくも神学校にいられなくなるからです」。

 

善意を傷つける。善意は傷つくものなのか。善意が傷つけはしないのか。

 

“ペテロの否認”について語るとき、阿曽は「一番、信じていた弟子に裏切られた」イエスの辛さを思う。善意の人トムは、「見棄てられたイエスも辛かっただろうが、ペトロだって……ペトロだって辛かったのだ」と主張する。

 

善意という潔白は、そこに黒点のひとつ落とすことも許さない。しかし、それは純白に黒が落とされぬからではない。真っ黒になった自分の純粋性を白と呼んでいるからだ。