『マザリング・サンデー』グレアム・スウィフト

マザリング・サンデー』グレアム・スウィフト

  (真野泰訳、新潮クレストブックス、2018)

 

27日公開の映画『帰らない日曜日(原題:Mothering Sunday)』の原作。主人公をオデッサ・ヤングが演じ、その相手役をジョシュ・オコナー(『ゴッズ・オウン・カントリー』)、主人公が使える夫妻をコリン・ファースオリヴィア・コールマンが演じている。前作『バハールの涙』がカンヌのコンペ入りを果たしたエヴァ・ユッソンが監督を務める。グレアム・スウィフト作品としては、彼の代表作である『ウォーターランド』と『最後の注文』に続いての映画化。

 

小説における「禁断」という要素は、社会と個人の葛藤のドラマを浮き彫りにするからこそ多用されるのだろう。しかし、1924年における「身分差」恋愛を描く本作を読むと、そうした要素は必ずしも単なる書き割りとしての機能に留まらない。立場の差はそれぞれの閉塞状況を露わにし、禁忌となる関係は各々の内面を堅牢に遮蔽する。主人公の内なる語りはその結果、より一層純度を増し、そこで培養された思いの丈は止め処ない。

 

ポールがジェーンとの情事を終え、出掛ける支度をするまでの間、ジェーンはそれを黙って見守りつつ、頭の中を有らん限りの想像で埋め尽くす。が、一言も口にしない。二人が一体となった事実を少しも目減りさせたくない。口から出る言葉は共通の理解を図るためのものであるから、二人が共有しているものの小ささを感じさせてしまう。ようやく口をついて出たのは、「ズボンを穿くのにずいぶんかかったのね」。ついさっきまでジェーンと同じ裸であったポールが身支度を終えた今、彼は彼女とは違う現実へと還って行こうとしている。

 

作家となった主人公のジェーンは、インタビューで“作家に必要な資質”を問われ、答える。「ことばはことばにすぎないということを理解しなくちゃね。空気の出入りにすぎないって……」。ジェーンという名がなくとも存在していた、ジェーンという名でなかったとしても存在している、彼女の運命が語る真実だ。

 

一人残されたジェーンは当然、ポールのこともあれこれ想像するのだが、何を見るにつけ何をするにつけ、ポールの家のメイドであるエセルについても思いを巡らしている。一度もなったことのない立場であるポールのことよりも、より子細かつリアリティをもって想像できるエセルの身の上や心情。ポールのメイドであるエセルに入り込むことで、少しでもポールの近くに留まろうとしているのか。それとも、自らの立場を今一度確かめようとしているのか。いや、言葉を発しないのと同様、何も纏わぬまま邸内を彷徨うジェーンは、ポールと自分を隔てる一切を拒絶できる束の間を味わい尽くそうとしているのだ。

 

メイドが休みをもらえ、実家に帰ることができる、年に一度のマザリング・サンデー。孤児院で育ったジェーンがその日帰る家はない。彼女が仕えている家の夫妻は、戦争で二人の息子を失った。ポールも二人の兄を亡くしてる。ジェーンは「生まれたときに一括して家族を失った」。最初から「なかった」ものを、喪失することはできるだろうか。母を知らぬジェーンは、母を喪失したのか? メイドが夢見た幻は、現実によって奪われるのか? すべては語られることで存在するのなら、語られぬ真実は存在しないのか? いや、きっとどんな騙りにも、語られてしまった真実が含まれる。だからジェーンは書けたのだ。「新しい言語を見つけること、これしかないという言語を見つけること」で、事実に名前を付けながら。