『マイスモールランド』川和田恵真

 

今年3月にNHK-BS1で放映された本作を観た。瑞々しい実直さが画面に充満していた。「懸命に生きている人物たち」を懸命に生きているキャストたち。それをまっすぐに見つめるカメラ…を忘れてしまう、まなざし。テレビというメディアに載ったことで、マスメディアが伝えることの難しい現実であることが際立った。映画として作られ、物語として語られ、劇場で体感することの意義を、映画館で再会した「彼ら」に教わった気がする。

 

「マイスモールランド」とは何か。チョーラク一家が許可無く県外へ出られなくなった事態を踏まえるならば、彼らが「幽閉」されている空間を指しているのだろうが、本作を観ているうちに私は日本そのものを指している言葉のようにも思えてきた。難民への門戸を閉ざすことは、自国という空間の持つ閉塞状態があってのことのようにも思う。というより、〈他〉を作り出すことによって〈自〉を認識しているかのようであり、結局は〈自〉しかないから〈他〉を闇雲に忌避しているだけのような、極めてちっぽけな世界、マイ・スモールランド。その一方で、どんなに小さくても自分の矜持を棄てぬクルドの人々が大切にする、マイスモール・ランド。サーリャのお父さんが、「ぼくらの国はここ(胸)にある」と語っていたように、その「スモール」とは物理的な面積ではない。どこまでも深く刻まれた、無限小の〈郷〉なのだ。

 

私は本作にケン・ローチ作品に通じる精神を感じた。彼の近作、たとえば『わたしは、ダニエル・ブレイク』でも、無慈悲で欺瞞に満ちたシステム(社会制度)は容赦なく批判するものの、決してその責任を具体的な誰かに帰したりしない。システムの被害者を庇うだけでなく、システムに隷属せざるを得ない体制側の人間でさえも犠牲者であることを知らしめる。本作においても、誰かに責任を転嫁したりなどしない。この残酷な現実は、個人の意図や裁量などで為されるような生易しいものではない。誰かを憎めば済むものではない。そのシステムの恩恵に、私たちは浴しているのだから。システムはその名の通り、必ずつながっているのだから。無知や無自覚によって断たれたシステムへの関与は、自分に無罪と安心を保障する。自分たちにはどうしようもないし、できることはない、と。そんな悪意なき「普通の人々」に囲まれ、諦めることで何とか自分を保とうとするサーリャ(嵐莉菜)に向かって聡太(奥平大兼)は言う。「しょうがなくなんかない!」

 

その言葉の後、根拠が述べられることも、打開策が提案されることもない。沈黙に耐えるしかない。しかし、その沈黙に耐えられないからこそ吐かれる言葉が「しょうがない」であるならば、「しょうがなくなんかない」という言葉を発するだけでも、そこには勇気がある。想いがある。空気のようなシステムの圧力を感知する、個人としての気持ちがある。

 

越境に「手形」を求める社会は、ふたりの掌跡を落書きと見なす。食事の前に祈りを求める父親に、娘はその理由を問う。妹は「お姉ちゃんは自業自得でしょ」と断じる。家族全体を抑圧する力は、家族一人一人がもつ差異を顕在化する。排斥された孤立の先に、更なる解体が待ち受ける。そのとき彼らをつなぎとめるものとは?  彼らにとって本当の「光」とは?

 

川のある空間が、彼らに自由をもたらしているのかもしれない。サーリャと聡太が語らう川辺。越境の禁止を嗤う、橋上看板への手形。チョーラク姉弟と聡太が赴く渓谷。川とは境界でありながらも、流れ、移ろうことを宿命としている場所である。そこでは止まることも、不変であることも許されない。誰もが「難民」になり得るという平等な現実がそこにはある。定住という神話にしがみつく者たちに、川のせせらぎは聞こえず、川のきらめきは見えない。本当に価値あるものを見ようとしない。

 

サーリャに「進路」を指導する教師の言葉は軽薄に聞こえるが、それは我々が無意識に発している免罪符としての言葉なのかもしれない。「努力は必ず報われる」、「視野を広げてポジティブにがんばっていこう」。一般論を気安く語れる人間は、具体的な苛酷など抱えていない。「もう頑張ってます」と呟かざるを得ないサーリャの心中を察する努力すらしない。しかし、それが我々の現実なのかもしれないという気づきを与えようとしているのが、本作の誠実さであり、それが全編に一貫しているからこそ、私たちは終始立ち会わざるを得ない。聡太の「しょうがなくなんかない」を胸に刻んだまま。

 

バイト後に聡太が廃棄のパンを処理しているのを手伝うサーリャ。廃棄の弁当(おそらく)を持って行けと渡す店長(藤井隆)。その「廃棄」がどこか、クルドの人々と重ねられているように思えたが、河原でサーリャに廃棄ではない「新作」のパンを手渡す聡太に、希望を感じた。日本の若者もまだまだ捨てたもんじゃない。

 

 

公式サイトの「PRODUCTION NOTE」を読むと、技術的にもこだわった作品であることがわかる。四宮秀俊の撮影は、今回も衒いがないのに確実に脳裏に刻まれる。今や「『ドライブ・マイ・カー』の」と言われるだろうが、私のなかではいつまでも『Playback』を大切な想い出にしてくれた人。『ドライブ〜』では、名画の前に立たされているような気持ちにさせる「完璧な画」が随所に挿入されていた。それに対して本作では、どんなに魅力的な画であったとしても決して額縁に入れられることはなく、見ている者を絵のなかに自然に佇ませてくれた。