『ファミリア・グランデ』カミーユ・クシュネル

『ファミリア・グランデ』カミーユ・クシュネル(土居佳代子訳、柏書房、2022年)

 

本書には冒頭に「訳者まえがき」がある。(私は「訳者あとがき」から最初に読む癖があるので、物理的位置に関わらず前もって読んでいただろうが。)そこでは、本書の出版時(2021年1月)の衝撃やその後の影響が簡潔に説明されており、本国読者が読みながら感じ取ったであろうものに近づくことを可能にしている。とはいえ、「日本で言えば」といった置き換え発想で補いつつではあるのだが。

 

著者であるカミーユ・クシュネルは1975年生まれで、私法を専門とする大学准教授。本書が初めての著作であるとのことだが、この本が書かれた理由、出版を選んだ理由を読者は一緒に考えていくことが求められる。なぜなら、本書は彼女の双子の弟が、継父から受けた性的虐待についての告発であり、そうした事実を知りながら長らく沈黙を続けた懺悔であり、それらを放置した「おとな」たちへの断罪であるからだ。

 

その継父とは、憲法学者で左派言論界の重鎮だったオリビエ・デュアメル。さまざまな要職を経験し、憲法評議会の次期会長とも噂されていたらしい人物。実母は、やはり左派の論客として有名な法学者で作家のエヴリーヌ・ピジエ。彼女はかつてフィデル・カストロの恋人だったという。そのエヴリーヌの妹(著者の叔母にあたる)マリー=フランス・ピジエは、オムニバス映画『二十歳の恋』の「アントワーヌとコレット」でコレットを演じ、その後もさまざまな映画や舞台で活躍した女優。実父のベルナール・クシュメルは「国境なき医師団」設立者の一人で、その後大臣も務めた。

 

エリートの知識人であり、政界やメディアにおける大物であり、しかも左派論客としても巨星の面々が集うファミリー。自らも「ファミリア・グランデ」と称し、〈自由〉を愛し謳歌する選ばれし者たちといった自負で特権的空間を醸成してきた〈家族〉。そこで展開されていた「祭り」は、極度な麻痺があってこそ可能なものだった。〈自由〉の名の下に、〈家族〉という紐帯と引き換えに、犠牲を「なかったことにする」ことが強要された無垢なる者たち。加害者や無自覚な彼の協力者の脳裏には、掠める罪悪感すらない。虐げられた上に口を封じられた者たちの方にこそ巣喰い続ける罪の意識。〈権力〉の有無によって両者は振り分けられている。〈権力〉とは場を支配する力であり、その磁場においては〈権力〉こそが秩序の形成者であるゆえ、その秩序を壊したくない者にとっては逆らいようのない絶対性を把持している。組織だろうが家族だろうが、他人だろうが肉親だろうが、権力と犠牲によって秩序の維持が図られるとき、〈権力〉側にいない者は犠牲を強いられたら黙るしかない。

 

あらゆる社会が秩序の維持を無条件に是とする。国家だろうが、会社だろうが、学校でも、家族でも。そこには共有されるべきとされる理念がある。「ファミリア・グランデ」においては、それが〈自由〉だった。左派であることを自負する知識人たちは、〈自由〉の名の下に都合の好い「秩序」を謳歌し尽くす。〈自由〉が己の行為をすべて正当化するかのように。〈自由〉には衝突も矛盾もないかのように。〈自由〉こそが侵害侵略の源泉になり得ることを忘れて。

 

助産師が赤ん坊を授乳のために著者に差し出した際、著者の母は「母乳で育てるなんて、自由を手放すのか?」と激怒する。夫が息子に対して犯した虐待を知った彼女が否定するのは夫ではない。著者が沈黙してきたことを責め、「自由」を享受した夫(継父)は不問に付そうとする。しまいには「彼は後悔している。……それにアナルセックスはなかった。フェラチオは、やはりそれとは全然違うから」などと言いだす。左派エリートを自認する人間の末路とは信じがたい。しかし、右派だろうが左派だろうが、道具のひとつに過ぎない理念を万能原理として手にしたとき、自らが犯す罪はすべて免除されてしまうだろう。それによって生じる犠牲はすべて正当な代償と見なされてしまう。そうした権力に魅せられた者は、全能感に酔いしれる。虐待それ自体によって得られる興奮もあるかもしれぬが、それ以上に自らが「神」かのように振る舞える場所(相手)への執着は、至高の愉悦をもたらす。隷属を強制されるものの傷が深ければ深いほど。

 

歪みきった正当化の隠れ蓑である「権力構造」を機能させているのは、当事者だけではない。周囲にいる者は勿論、それを認知している者すべて(自分自身は無関心であったり、関わっていなくとも)が、そうした構造を盤石化させている。時として、強烈な支持よりも黙認によってこそ、盤石と化す。社会に参加している以上、何ら関与せず、加担していないと言える者などいない。

 

告発や暴露、糾弾という選択に難色を示したり非難する風潮は根強い。そういった態度をとる者は自らを、その世界を鳥瞰するかのような「視点」に置く。しかし、私たちには等しく重力が働いている。都合良く傾けられた視点は偏向を水平と見なすだろう。しかし、その「水平」に抑圧されている者たちがいることを、彼は知らない。