『トップガン マーヴェリック』ジョセフ・コシンスキー
トニー・スコットが監督したトム・クルーズ主演の『トップガン』(ト揃いな映画だったんだな)を初めて観たのは、トニー・スコット追悼特集として組まれた早稲田松竹の2本立てだった。今から10年前の2012年。彼の遺作となってしまった『アンストッパブル』が併映だったのだが、同作が異様に好きだった自分は超有名作である『トップガン』を観たことがなかったので、絶好の機会と思って足を運んだ。が、正直なところ、たいして心躍らなかった『トップガン』。それなのに初日に観に行くことにしてしまった続編のため、前日の夜に再び挑んだ『トップガン』も面白いと思えずに(ただ、それなのに体感時間は長くないのは不思議)、不安だらけで足を運んだ『トップガン マーヴェリック』。
きっと映画のあれこれがどうこう以前に、そもそも映画に出てくる諸々に自分は興味がないんだなとつくづく思い知る。というか、「軍隊」というものが直感的に苦手なうえ、恋愛にしろ友情にしろ、相容れない決定版みたいなノリがとことん展開されていくので、全然物語に入っていけない。決して悪い奴等じゃないし、こんな自分にまで親切にしてくれるけど、「ごめん、やっぱムリだわ」って感じる飲み会に来てるみたいな場違い感をおぼえ続け・・・四分の三ほどが過ぎたところで、突然楽しくなってくるという驚異。
トム・クルーズものが特に好きという訳ではないものの、ミション:インポッシブルは「ゴースト・プロトコル」以降は初日に駆けつけるくらいには好きで、毎回心底楽しみつつ感動までしているのに、なんでトップガンはどちらも楽しめないのだろうかって考えながら観ていたのだけれど、最後の最後で自分が好きなM:I感が押し寄せて来てやられたのだと思う。俺様中央集権型から、多中心的チームワーク展開による相互補完による超克へ。
敵やミッションの設定があまりにも都合の好い書割的であることに集中力や緊張感が削がれたりもしたものの、それも彼らのドラマを全面展開するための空気背景だったんだと気にならなくなってくる。すごい力業というか潔さ。
前作を前日に観た効果は絶大で、終盤、ルースター(マイルズ・テラー)がグース(アンソニー・エドワーズ)に見えて来だすとそれだけで(自分が経験している訳でもないのに)30年以上の歳月がもつドラマのすべてが己の感情に押し寄せてくる。きっと36年前に『トップガン』を観た人たちが咽び泣く感動の大きさの片鱗を、前日に前作を観ただけでも味わえるのだから、やっぱり偉大な作品なのかもしれない・・・などと思い始める自分の安っぽい感性に感謝。
でも、おそらく本作の観賞を感動で締めくくれた最大の要因は、公開初日に大入りの劇場で観たからかもしれない。混んでる映画館は嫌いだし、マナーの悪い客に悩まされることも多い神経質な自分ながら、当日の場内は皆がスクリーンに没入してる緊張感がみなぎっていて、その空気だけで作品の価値を5割増しくらいにしていた気がする。(『シン・ウルトラマン』も初日に観てしまったが、あれもそれなりに楽しめたのは内容以前に場内の空気にやられた部分があった気がする。)終盤、自分もそこそこ感極まって来ていたところで、隣の女性の涙を拭うような所作が視界に入ると、感激は完全に氾濫。上映が終わって明るくなった後、方々から聞こえてくる感想のあれこれもまた、余韻をアシスト。こういうことがあると、映画館で観るという体験をやっぱり特別視したくなる気持ちが生き長らえる。
作品自体の力もあるとは思うが、映画館に来てよかったと素直に思えるような帰り道の余韻を与えてくれる満足感こそが、ややドーピング気味な絶賛の嵐を呼んでいるのかなとも。でも、あまりにも特異な偏向性が強まりつつある日本の映画興行において、素直に喜べる貴重な好調かつ好評だと思う。