『シークレット・チルドレン 禁じられた力』アンドリュー・ドロス・パレルモ

 

監督:アンドリュー・ドロス・パレルモAndrew Droz Palermo

原題:One & Two(2015)

 

Netflixでの配信がひとまず6月6日迄ということで観た(けど、U-NEXTでは見放題のままだった)。ティモシー・シャラメがブレイクする前、2015年の主演映画(といっても、妹役のキーナン・シプカと父役のグラント・バウラーの三人を中心に物語は展開する)。デヴィッド・ロウリー監督作の『A GHOST STORY』『The Green Knight』で撮影を担当しているアンドリュー・ドロス・パレルモが監督を務めていることを知り、興味がわいた。(アンドリューにとっては、長編劇映画初監督作)

 

本作ではアンドリュー自身が撮影監督を務めてはいないが、『A GHOST STORY』で見られた美学は終始画面上に。「モデル」もティモシー・シャラメだし、確かにずっと「絵になる」映画ではあるものの、思わせぶりに始まって思わせぶりに終わるので、作品自体が語る力は極めて弱い。短篇映画が90分に間延びしてしまったような印象を受けるが、その分、作品の世界観にゆったりと浸りながら能動的に作品内を探索できたなら、それなりの発見もありそうだった。(が、そこまで前のめりになることはできなかった。)

 

両親と兄妹の四人家族が暮らしているのは、人里から離れ、城壁のようなものに囲われた彼らだけの世界。だから、彼らの平和な日常に亀裂が入るまでは物語が彼らだけで進む(というか、実質進まない)。その「亀裂」の原因となるのが、母の発作(てんかんのような)と兄妹の持つ超常能力(瞬間移動)。後半で、父親の口から彼らの世界の「背景(来歴)」が僅かながら語られるが、それで全容を把握することは困難な為、本作の鑑賞においては示唆から各自が思考することが要求されているものと理解した。

 

兄妹の瞬間移動の描写は単純ながら、なかなか魅力的。勿論、そこにはCGが用いられているのだが、つまり「CGの使用≠自然現象」と考えられる訳で、そう考えるならば「CGを用いないと描けない能力=超自然的な力」と解することができる。食事のまえには祈りを欠かさず、自然の恵みだけで暮らそうとしている敬虔な家族にとって、自然に背くような力を操る兄妹はまさに〈異端〉であり、能力の駆使は背信であり、禁忌と見なされるのだろう。しかし、母はそれを必ずしも拒絶せず、子供たちの一部として受け容れようとする。が、父はそれを絶対に認めない。そして、母の死を機に、原罪に無自覚な娘(エヴァ=イブ)を楽園から追放し、「父と子」で聖霊と共に平穏な生活を取り戻そうとする。

 

兄妹の能力を人智の象徴として捉えるならば、それを人間が完全に拒絶することもできなければ、それが自然とそのまま共存することもできないということが、父親との関係や父親の末路によって示されているとも言える。人の移動のみならず、物の輸送、情報の交換などにおいては、原始的な時代からすれば「瞬間移動」と言えるような事態に到達している現代。その能力と私たちはどのように向き合うべきだろうか。