安藤瑠美「TOKYO NUDE」

 

写真に対する個人的な興味関心は、人物よりも風景、自然よりも都市空間にある。となれば、このような写真に吸い寄せられるのは必然。レタッチという“加工”が施されたことによって生まれるフラットな感触は、エドワード・ホッパーの絵画を思わせたりもする。

 

「NUDE」ということは、衣服をまとっていない裸体の意となるはずで、衣服が〈文明〉の表徴とするなら、裸体は〈自然〉のはず。しかし、そもそも都市空間とは〈自然〉の対極となる場。〈文明〉の象徴たる都市空間TOKYOから〈文明〉の痕跡を全て拭い去ったときに出現する「光景」が見せる実像とも虚像ともつかぬ貌。

 

 

レタッチャー/フォトグラファーとして活動する安藤の代表シリーズとも言える「TOKYO NUDE」は、合成や加工などの補正技術(レタッチ)を使用し、「虚構の東京を写真で作る」というコンセプトのもと制作されます。

広告や窓、室外機など、安藤が街の“ノイズ”と呼ぶものすべて消すことで、文明という衣服を脱ぎ捨てた、東京の裸の姿を露わにさせています。色彩や配色を変え、雲や建築物までも合成された空間は、実際にある風景でありながらも、絵画のようにフラットなパラレルワールドとして東京の輪郭を写し出します。(プレスリリースより)

 

たしかに作品にはいずれも「パラレル」感があふれている。在り得るかもしれない、まだ見ぬ街のすがた。絵画性を名実伴った写真がかもす「シティポップ」感。線が描く幾何学性と、色が多層な面を単純並置する非遠近感。世界とはこうも見えるかもしれない。こう見たい気持ちがあるかもしれない。

 

作家は次のようにも語っている。

 

「レタッチは視覚情報に絞った分、とても高度な視覚処理。一方で撮影は、もっと包括的に五感の感性をフルに使った行為。それぞれに良さがあると思っていますが、両方を経験すると、1枚の写真への理解度がより高まると思います」

Webサイト「GENIC」【#写真家が撮る日常:4】安藤瑠美より)

 

自然と文明がすれ違うような対話をしている作品群。その作品制作の過程そのものが、素材と加工のせめぎ合う場であるようだ。

 

文明の痕跡としての“ノイズ”を除去したとき、より空間のもつ文明性がむき出しになるという逆説的営み。裸の赤ちゃんに感じる自然と、素面の淑女に感じる違和。街を裸にするという「TOKYO NUDE」は、裸の持つ意味が、裸のもつテクスト性よりもそれを取り巻くコンテクストによって決まることを示唆している。

 

裸になった「TOKYO」はもはや「東京」性すらも剥ぎ取られたかのようであり、都市の「顔」とは文明のノイズによってメイクされていることを識る。都市のもつ匿名性を感じた「TOKYO NUDE」だが、他の都市(国内は勿論、諸外国の)で同シリーズを展開した場合、私の眼にはどのように映るだろうか。

 

TOKYO NUDE - reflective city -

会場:hpgrp GALLERY TOKYO

(展示作品:10点)6月25日まで

 

TOKYO NUDE - mountain range -

会場:H.P.FRANCE WINDOW GALLERY MARUNOUCHI

(展示作品:6点)6月26日まで

 

『シティポップとは何か』柴崎祐二(河出書房新社)

『シティポップとは何か』柴崎祐二河出書房新社、2022年)

 

「シティポップ」という定義は昨今のブームで刷新され定着した感があったが、本書を読むとそういった体感の正体が見事に“証明”され、肯きの心地よさと思考発展への好奇心で読み止す間も惜しく読了してしまった。

 

「シティポップ」という呼称のルーツや変遷、背景や事情などを事実に基づきながら丁寧に考察するところから始まり、現在そう呼ばれている音楽群を同時代の観点や後世からの認識のみならず、多角的に捉えようとするアプローチのもつ示唆は、読者の興味方位を見事に開拓。筆者(1983年生まれ)が、元祖「シティポップ」をリアルタイムで体験していない世代であるということがむしろプラスに作用して(本人がそれを書き手の強みとして自覚的)、経験主義によるバイアスから完全に自由になった論考が展開されている。論争的な話題には深入りせずとも冷静に分析するし、具体的な固有名詞も遠慮なく明示されているのだが、個々の事象の羅列や確認だけでは終わらない。文化としての音楽(カルチャーとしてのシティポップ)を社会という枠組の中での現象として捉えようとする意識が常に根底にはあり、だからこそ「とある」分野や現象にだけ通用する指摘になっていない。あらゆる文化事象にも通底するコンテクストの想起と、さまざまな文化現象とも共有しうる考察が見事に展開されていく内容は、音楽ファンを満足させ、音楽を知的に考えてみたい好奇心を充たす。

 

精緻に組み立てられている本書の内容から短絡的で簡素な個人的な結論を導くならば、シティポップ人気の理由はやはり「オシャレ」にありということだ。但し、そのオシャレ要素は一過的熱狂で消えたりしない。その要因として納得するのが、シティポップのもつ機能を象徴する二つのキーワード。「シーンメイキング」と「ノスタルジア」。

 

シティポップ群のリアルタイム人気を支えていたのは、オシャレな風景に合う音楽であることから派生した「現前の光景(現実)をオシャレにしてくれる」音楽の効き目。つまり、シティポップの最大の強みは「視覚的」であることだった。政治色からは極めて遠く(というより、むしろ完全脱色に近く)、ものすごく経済的な(消費社会における快楽の享受を背景とする)シティポップは、「見た目」が大事なのだ。あくまで個人的な意見だが、元祖シティポップ群においては、アートワーク等の「見た目」やアーティスト本人の雰囲気には相応のオシャレ感が必須であったように思うが、アーティスト自身の「見た目」そのものはそれほど重視されていない(というか、人気の要因として機能している訳ではない)気がした。それは、そういった音楽を聴く人々が求める「見た目」は、アーティスト本人とは別のところ、つまり音楽が作り出してくれる「見た目」の良さにあったからかもしれない。(しかし、随分最近まで日本の音楽シーンにおけるアーティストの「見た目」は重要な人気要素だったように思うし、その欠如によって人気という面でハンデを負ったミュージシャンが大勢いたように思う。その逆もまた然り。余談だが、山下達郎の新作『SOFTLY』のジャケットが「顔そのもの」であることに時代の流れを大いに感じたり。)

 

したがって、実際にはヴィジュアルを持たない「音楽」なのに、「見た目」が好い音楽であるシティポップとは、極めて汎用性の高い良質を備えていることになる。だからこそ、時代や文化を超えて享受されるのではないかと思ったりもする。

 

本書に収録されている、「〈再発見〉はどこから来たか?:海外シティポップ・ファンダムのルーツと現在地」と題されたモーリッツ・ソメと加藤賢による論文では、シティポップ愛好者へのアンケート調査をもとに興味深い論考が展開されている。そのなかで、「シティポップから連想するキーワードを3つ挙げてください」という設問(自由回答形式)の結果が面白い。その1位になった言葉が「ノスタルジア(Nostalgia)」。出現頻度で言うと、2位の「Funky」(7.5%)のほぼ1.5倍、3位〜6位(Japan、Summer、Relaxing、80s)の3〜4倍の、11.5%となっている。しかし、ここで語られる「ノスタルジア」は、かつて実在した過去への郷愁というよりは、かつて憧れていたが実現しなかった夢想世界へのそれだという指摘が本書では度々なされている。だとすれば、そういった気持ちを誘発するシティポップの効果効能は、果てしない夢となってあらわれるだろう。(但し、シティポップにそういったノスタルジアを覚える人の数は、少なくないけれど莫大とはいかない程度なので、その「限定」具合がシティポップを生き長らえさせる秘訣のようにも思われる。)

 

シティポップにおける「ノスタルジア」を巡っては、本書の終盤で更に興味深い論考が展開されている。それは、ロシア出身の比較文学者/メディアアーティスト/作家であるスヴェトラーナ・ボイムの著書『The Future of Nostalgia』(未邦訳であるのに筆者が和訳して引用してある!)で展開されているノスタルジア概念にもとづくもの。彼女はノスタルジアを二つのタイプに区別しており、それが「復旧的(Restorative)ノスタルジア」と「反省的(Reflective)ノスタルジア」。前者は「故郷を強調し、失われた故郷を、歴史を超えて再構築しようとするもの」であるのに対し、後者は「憧れそのものに生成し、賢く、アイロニカルに、かつ是が非でも「帰郷」を遅らせるもの」とされている。そのうえで、「復旧的ノスタルジアは、自らをノスタルジアとはみなすことなく、真実や伝統と考える。反省的ノスタルジアは、人間の憧れや帰属意識の両義性に思いを馳せ、現代の矛盾から逃げようとはしない。復旧的ノスタルジアは「絶対的な真実」を護持し、反省的ノスタルジアはそれを疑う」と述べている。それを承けて筆者は、現在のシティポップ受容における「復旧的ノスタルジア」の危険性を指摘しつつも、「反省的ノスタルジア」の可能性に期待してもいる。現在において「シティポップとは何か」という問いのもとに物された書籍の結びとして、理想的かつアクチュアルな〈回答〉だと思った。

 

『ビッグ・イン・ジャパンの時代』(BURRN! 叢書 29)

『ビッグ・イン・ジャパンの時代(BURRN! 叢書 29)』

  (シンコーミュージック・エンタテイメント、2022年)

 

雑誌『BURRN!』編集部員の幅由美子が、同誌編集長の広瀬和生にインタビューする形式。最初(第1章 総論)と最後(第13章 総括)で90年代を中心とした「ビッグ・イン・ジャパン」現象を振り返る。第2章から第12章では各章でバンドを一組ずつ取り上げている(そこで取り上げられているのは、イングウェイ・マルムスティーン、MR.BIGFAIR WARNINGROYAL HUNTHAREM SCAREM、NIGHT RANGER、グレン・ヒューズ、ジョー・リン・ターナーHELLOWEENBON JOVIDOKKEN)。

 

本書で扱っているのは、いわゆる「ハードロック」や「ヘヴィ・メタル」として認知されるようなタイプの音楽なので、その方面に明るくない自分としては、馴染みのある固有名詞や興味のある話題のところを拾い読みした程度だが、全体を通して繰り返し強調されていた事実としては、「90年代はとにかく日本でCDが売れた」「日本で売れる必要条件は女性ファンからのアイドル的人気」という二点に尽きるように思う。ただ、これは90年代日本のハードロック市場におけるビッグ・イン・ジャパンという現象にだけ見られる特殊な事情ではなく、日本のエンタメ業界に共通する側面な気もする。例えば、映画業界で邦画実写がやたらと集客できた時の状況にも同様の傾向があった。そして、「とにかく売れる」という現象は、二番煎じや二匹目の泥鰌を狙う傾向を促しもしたが、その一方で、「平時」であれば冒険や挑戦として切り捨てられたであろう領域に光が当てられる寛容さもあったように思う。そうした時期に息づいた「遊び」の部分をリスナーとして享受できたかどうかは、文化的感性に大きな影響を与えただろう。バブル崩壊という経済の破綻が音楽業界にかつてない好景気をもたらしたメカニズムや、その現象の功罪についてはもっと語られたりしてもよいと思うし(単なる回顧録的な次元ではなく)、そうした分析こそが、経済の停滞がデフォルト化した日本社会において「ある分野の活性化を図る」ヒントになったりするのではないかと思う。

 

とりあえず本書を読んで思うのは、「売れる」とお金が本当に集まって来て、お金がたくさんあれば「やること」のハードルは必然的に下がるんだな、ということ。それは、雑誌の取材で海外にバンバン出て行けたり、海外アーティストをプロモーションや取材だけでバンバン来日させたりといった業界内の動向だけに限らず、CDを買ったりライブに行ったりするファンたちの動きにも気前の好さや熱量が増大の一途だったんだろうことが見えてくる。だから、とにかく人もモノも金も動きまくっていた訳で、景気の好さというのは回ってなんぼなんだなってことがよく判る。そして、資本となるお金があることは重要だけれど、時間の余裕というのは強度の熱気によってしか捻出されないのかなとも思う。貧乏暇無しがその通りであるならば、日本に好景気が再来しない限り、文化的な熱気など夢のまた夢なのだろうが、今では時間を捻出するさまざまなツールがあったり、ライフスタイルの多様性もあるはずなので、マネーで盛り上がった90年代とは違った形で、日本の音楽業界はじめ様々なエンタメ産業の隆盛が再び見られたりはしないものだろうか。そのためにはまず、ユーザーのガチガチになった財布の紐が緩まぬことにはどうにもなるまい。ただ、その紐をどうにかするためにはまず、文化の発信者の側の気前のよさが決め手になる気がする。「ビッグ・イン・ジャパンの時代」がそうであったように。緩みがちな財布の紐ばかりに手をかける現状のやり方では市場の拡大は起こらぬばかりか、貴重な「資源」すら早々に食いつぶしてしまうように思えてしまう。文化方面での先行投資的発想があまりにも希薄な状況を打破し、エンタメ業界全体がもっと〈啓蒙〉の観点を持って“土壌”全体を肥沃なものにしていって欲しい。

 

BON JOVIの章で語られていた話で興味深かったのが、彼らが1995年にイギリスのウェンブリー・スタジアムで2日間公演をしたとき、なんとVAN HALENが前座扱いだったという話。しかも、観客もそういった認識で、VAN HALENのときには「Jump」と「Panama」で盛り上がる程度で、BON JOVIが出てきた途端に総立ち大盛り上がりだったとか。その年に発売された「THESE DAYS」は全米9位に対して、日本とイギリスでは1位だったようなので、そういった状況や反応は自然なのかもしれないが、同じ英語圏アメリカとイギリスよりも、日本とイギリスの方がBON JOVI好き(しかも、VAN HALENアメリカでの大人気ほどには至らない)という点で共通するっていう感じが、嗜好っていうものの決定要因の妙を思わせてくれたりする。(個人的には、やっぱり湿度って大きいんだなって感じる。)そう考えると、同じ90年代の日本におけるブリット・ポップ人気は、ただ単に音楽市場の好景気の影響だけではなかったのかもしれない。