『PACHINKO/パチンコ』コゴナダ、ジャスティン・チョン(Apple TV+)
原題:Pachinko
監督:Kogonada(第1話〜第3話、第7話)
Justin Chon(第4話〜第6話、第8話)
音楽:Nico Muhly
撮影:Ante Cheng(『ブルー・バイユー』)
Florian Hoffmeister(「Tár」)
以前、一年間無料でApple TV+が見られたにも関わらず、見逃したままだった本作。年始の無料開放にてようやく見た。
コゴナダとジャスティン・チョンという注目の二人が4話ずつ監督を務めている上に、音楽はニコ・ミューリーだし、撮影は「Tár」で大注目のフロリアン・ホーフマイスター。そうした協力スタッフによって構築された作品世界に魅了されないはずはなく、長めの映画一本を観る感覚で全8話を駆け抜ける。
1989年と過去(1915年、1931年)を往き来しながら進んでいく本作だが、ジャスティン・チョンが監督を務める第4話〜第6話と最終話においては、とりわけ二つの時代/世界の交錯がより密接にリンクして語られる。一方、コゴナダが監督をしている第1話〜第3話においてはふたつの世界があくまでそれぞれ自律しているように並行して描かれる。また、第7話においては往来が全くなく、1923年の横浜を舞台として関東大震災における朝鮮人たちの悲劇が描かれる。(この第7話だけはビスタのサイズになっている。しかも、上下黒帯のシネスコの左右を縮めた形でのビスタなので、一話まるごと所謂「額縁」状態になっている。『アフター・ヤン』でも作品内で画角変化を用いていたコゴナダ。個人的には作中での画角変更はあまり好きではない。安直な手法のように思えることが多いし、そもそも作品への没入感が削がれたりするからなのだが、コゴナダ監督が気に入っていて今後も多用するとしたら厭だなと思ってしまったりした。)
本作では随所に日本人による朝鮮人への抑圧・差別・暴力的態度などが描かれているが、そこに余計な感傷などが入り込んでいないからか、史実としてすんなりと入って来る。「日本人が朝鮮人を」といった固有性を超越した普遍的な社会的暴力の現実がそこにあるからかもしれない。しかし、それ以上にそれらによって踏み躙られまいとする凜然たる矜持のしなやかさこそが作品に刻み込まれているため、単なる啓蒙や教育としての提示とは次元が異なっている。とはいえ、第7話において、関東大震災で朝鮮人が大量に殺害されたという史実の映像化を初めて観るとき、映像によって過去の事実が「肉付け」されることの意義を深く感じた。物語という形式で、映像という手段によって、事実が語られる意義があるからこそ、こうした映像作品は絶対に必要なのだと改めて認識した。
ミン・ジン・リーによる原作では1910年から1989年までが経時的に語られているようであり、また映像化によって削られているエピソードも多々ありそうなので、原作に触れると本作で描こうとしていること(意図)がより理解できそうだ。
撮影場所や使用言語の都合上、日本語ネイティブのキャストは少なく、日本語の場面ではその発音等にやや違和感はあるものの、ほんのわずかしか日本語を喋る場面がないユン・ヨジョンの日本語が見事なもので、その自然さは演技力と人間力の賜物なのだろうと感動した。彼女が演じるソンジャの若き日を演じたキム・ミンハも素晴らしかった。難しい役どころを演じきったイ・ミンホは本作で役者としての評価を上げ、大きく飛躍していきそうだ。
またオープニングの映像は、『アフター・ヤン』における冒頭のダンスシーンを思わせるもので、コゴナダ監督によるものかと想像したが、どうだろう。
主人公の息子が財を成した「パチンコ」がタイトルとなっている本作。パチンコ屋で、玉が出る出ないは釘次第といった会話がなされる場面がある。パチンコ玉を人間(個人)と見るならば、所詮ひとりの人間など釘の操り(社会や権力者の力)に翻弄されるしかない定め。釘が変わらない限り、玉(個人)の運命はどう足掻こうが同じ結末。しかし諦めなければ時として、重力の気まぐれを手繰り寄せられもするだろう。そうやって人生は踊り出す。