『大都市はどうやってできるのか』山本和博(ちくまプリマー新書)

ちくまプリマー新書は、中高生でも読みやすいことを念頭に書かれていることもあって、表現のみならず内容的にも「親切さ」と「公平さ」への意識が非常に高い印象があり、読みやすさのみならず、思考の広がりをもたらしてくれる良書が多い。そんなこともあって、同シリーズの新刊は積極的に手に取る。(一つ前の小田中直樹歴史学のトリセツ——歴史の見方が変わるとき』も面白かったし、少し前の山口裕之『「みんな違ってみんないい」のか?——相対主義と普遍主義の問題』は実に読み応えのある内容だった。)

 

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本書のタイトル通りの内容は、第1章の「なぜ都市ができるのか」に詳しい。人間が集まって生活する理由や背景を、狩猟採集時代の自給自足生活から始め、その規模がどのようにして大きくなっていったかを原理的に説明している。統計のない時代だからこそ、因果関係の論理的な説明には説得力があり、と同時に人間社会の原理について考える頭の準備運動を促してくれもする。

 

第2章の「『多様性』と『輸送費用』の役割」も興味深い考察で、人文学的な文脈における「多様性」とは異なったドライな効用として考える「多様性」の在り方は面白い。思想的なアプローチとは違った、経済学的発想で「村」と「都市」の違いを捉えてみるのは実に新鮮。

 

第4章の「少子化と都市」では、大都市ほど合計特殊出生率が低くなるという事実の原因を、さまざまな角度から分析している。いずれも論理的な考察で、思い浮かぶ実態との符合や連関を思って、いろいろと納得のいく興味深い内容になっている。

 

たとえば、男女の賃金格差は、労働において筋肉が求められる段階においては当然男性の方が高くなるのに対して、労働において脳が求められるようになると格差が小さく(無く)なる。従って、都市部の方が男女の賃金格差は小さいかというとそうでもなく、実際には、女性の相対賃金(対男性)が最も高い都道府県は沖縄県で、最も低いのは山梨県。東京都も断然低い方の部類に入る。(筆者は大学への進学率が男性の方が高いことを一因として推測。ちなみに、先進国では女性の大学進学率の方が高いことの方が一般的なのだとか。)しかし、賃金水準は都市部の方が高い。賃金は女性の方が相対的に低いから、女性の方が育児や家事に時間を割くようになりがちながら、そこで失われた賃金(「機会費用」)は地方よりも都市部の方が高い。おまけに、都市部は財の多様性も極めて高く、その分、所得の価値も実質高まる(選択肢が多い方が満足度が高まるため)。そうなると、出産や育児において「損失」とみなされる費用が都市部においては地方より大きく(感じられるように)なり、出生率は低下する。そのあたりの明確な因果関係は統計だけからは何とも言えないだろうが、心理的な要因としては該当すると思える指摘も多々ある。

 

第5章の「情報技術の発達がもたらすもの」では、ICTの発達によって大都市が縮小するのかどうかを考察しているが、ここでの結論は否。歴史的事実と比べているのも面白い。印刷技術の発達にしろ、電話の発達にしろ、電子メール等のインターネットの発達にしろ、そのいずれもが都市の衰退を招くどころか、その後に更なる大都市化が起こっていると指摘している。それはなぜか。新たなものと出会う機会の創出が新たな対面を誘い、それは結果的に多くの人が多くの出会いを求めて都市に集まってくるからであるという。そこには多分に人間の心(感情)が関係しているように思う。技術は物理的な時空を大きく変容させるし、精神の動向にも影響は与えるだろう。しかし、そもそもの精神の在り方はそう変わらない。経済学においても、最も確定困難な変数なのだろう。

 

東京に住んでおきながら、東京に住むことに疲れた感覚をどうしても抱いてしまいがちな自分にとって、「東京は本当に大きすぎるのか」(第6章)の結論は足元を見つめ直す好機になったかもしれない。とは言っても、社会を主語として考えた場合の解と個人としての解を分けて考えるところから始めなければならないところもあって(しかし、社会と個人が不可分である現実もあるわけで)、たとえ「大きすぎ」なかったとしても、「大きい」という事実を自分がどう感じるかは再考の余地があるだろう。今更、自然豊かで長閑な田舎暮らしはできないとしても、地方都市を訪れた時に感じる「ちょうどいい時の流れと空間の広がり」は、東京の息苦しさゆえだとしても、それ自体を享受しながら生活するという現実を夢想してしまう自分がいる。ネットのなかで「等価」になれるからこそ、現実空間での身の置き場を思うとき、他の選択肢の想起から免れない素直な気持ちがあるからだろう。