『いきている山』ナン・シェパード(みすず書房)

 

いきている山 | ナン・シェパード, 芦部美和子, 佐藤泰人 |本 ...

(芦辺美和子、佐藤泰人 訳)

 

著者であるナン・シェパード(1893ー1981)が生涯通い愛した、スコットランド北東部のケアンゴーム山群。彼女が同地での経験をもとに書き上げた作品。本書にも収められている、ロバート・マクファーレンによる「序文」には次のような一節がある。

 

「『いきている山』は、説明するのがひどく難しい本だ。祝福の散文詩、とでもそれを呼ぼうか? それとも、ジオポエトリーの探求? 土地を言祝ぐ賛歌? もしくは、知の本質に対する哲学的問い? 長老派教会信仰と道教との形而上学マッシュアップ? こうした説明のすべてが部分的に当てはまりはしても、本書のすべてを言い表せているものはひとつもない。」(176頁)

 

ナン・シェパードは小説作品も詩集も発表しているが、本作はいわゆる小説でもなければ、純粋な詩でもない。しかし、そこには紛れもない物語性や詩情が散りばめられていることで魅了された読者は、単なるエッセイとして本書を語ることに躊躇いを覚えるだろう。

 

12の章から構成されているが、前半の6章は無機物への観察が中心であり、第7章からは「いのち」がそこに入って来るのだが、そうしたことも彼女自身がそう語っているのを読んで初めて気づくことなのだ。それほど、彼女の語る山は「いきている」。

 

岩や土、水や空気といったものへの洞察力は表現の豊かさには、山の活き活きとした有り様が迫ってくるほどだが、植物や動物の描写へと移行すると、その鮮度は勢い増してゆく。

 

「…ワシの飛ぶさまはより深い満足感を与えてくれる。彼の上昇が描く大きな螺旋は、均整の取れた輪を上へ上へとゆっくり重ねていく。その動きの中に、空間の広がりというものが余すところなく現れている。彼は限界まで昇り詰めると、そこから水平飛行に入り、目で追える限りまで飛んでゆく。真っ直ぐに、清々と、呼吸するように力みなく。翼はほとんど動かない。なだらかな坂道を、ペダルを漕がずに下るサイクリストが、ほんのひと漕ぎふた漕ぎするかのように、時折、気怠げな羽ばたきをしてみせる。鳥はただ浮かんでいるように見える。ただし、真っ直ぐな、ぶれることのない力で。彼が逆風に向かって浮いているのだと気づくときに初めて、その力の大きさが明らかになる。見渡す限り白銀の世界が広がる一月のある日、私は高度2500フィートくらいのところに立ち、自分よりもだいぶ下、獲物を求め、谷を上流に向かって飛ぶワシを見た。彼はまともに向かい風を受けていた。翼はわずかに傾いているが、上から見る限りしっかりと保たれている。彼は目的を持って一心不乱に飛んでいたが、それは恐るべき力に裏打ちされたものであったに違いない。」(87-88頁)

 

無機物であろうが植物だろうが動物だろうが、ナン・シェパードが描くそれらの生彩は、確実にそのそれぞれが格を持った存在である。その理由がわかるような描写がある。

 

「それにしても、なぜ私はこうして彼らの名前を挙げ列ねるのだろう? 何かの目的にかなうわけでもないし、鳥のことなら何でも本に載っているのに。しかし、私にとって、彼らは本の中の生き物ではない——今を生きるもの同士の出会いの中に、すなわち、彼らの生の瞬間と私の生の瞬間とが交わるところに存在する。」(96頁)

 

最後の三つの章(「眠り」「感覚」「存在」)は、視点が自分自身へと入っていく。

「私は戸外で眠りに落ちると、おそらく戸外での眠りはいつもより深いせいか、精神が空っぽの状態で目覚める。自分がどこにいるのかという意識は、比較的すぐに戻ってくる。けれど、この驚くべき一瞬、私はよく知っている場所を、今まで一度も見たことなどないかのように見るのだ。」(126頁)

 

世界はただ神によって造られただけのものではなく、それを享受する感覚をもったものによっても創られる。

 

「すべての創造物同様、物質は精神によって受胎する。しかし、その結果生み出されるものは、生きている霊。意識の中に灯る輝き。この輝きが消えれば意識も死んでしまう。この生きている霊は、非存在——あの、絶え間なく私たちに忍び込んでくる影、けれど絶え間ない創造的行為によって追い払うことのできる影——から摑み取ったもの。だから何かを、たとえば山を、ただ見つめる。その物体の本質を貫くほどの愛をもって。これこそが茫漠たる非存在の中で、存在の領域を広げる行為。この行為こそ、人間が存在する理由。」(140頁)

 

「そう、ここでは感覚の生を生きられるのかもしれない。身体が思考する。それほどに純粋で、感覚以外のいかなる認識形態にも影響されることのない、感覚の生を。これ以上なく研ぎ澄まされた知覚の域へと高められたそれぞれの感覚は、それ自体で完全な経験となる。これが、私たちの失ってしまった無垢。一つの感覚に没入し、ある一瞬を永遠に生きるという無垢。」