『あのこと』オードレイ・ディヴァン
女性だけが子供を産めるという事実を、私たちは「どれだけ」知っているのか。それが何を意味するかを、男性は「どうやって」知るのか。おそらくそれは、出産を描いた作品からは得られないものなのだと思い知らされた。絶対に産まないと決意した女性の闘いのなかで初めて、男性にもその事実の持つ意味が意味を成してくる気がした。
妊娠している時点から始まり、中絶するという選択肢しか頭にない主人公アンヌ(アナマリア・ヴァルトロメイ)は、その目的に向けてひたすら直向きに突き進む。「余計」な逡巡は介入せず、周囲の大きなお世話も社会通念による圧力も、彼女の進む道にとっては除けるべき障害物の一つに過ぎない。だから、カメラもその目的にしか興味はなく、編集は彼女の目的に向けられた努力だけへの注視で繋ぐ。それにより観察者である観客は監察官にはならず、ただ立ち会っているだけとなり、彼女の心身を引き受けざるを得ないような感覚で現前の映像記録に牽引される。
当時は違法であった中絶、そして未だにその是非が問われもする中絶という「問題」自体についての議論する興味など、本作にはない。むしろ、問題として議論することなしに違法という社会の共通認識を一方的に女性へと押しつけてきた(いる)現実の無責任さこそが、アンヌの味わう痛みと表裏一体となり、突き付けられる。
近代以降、個人の身体は個人へと帰属するかのように思われた。しかし、必ずしもそのすべてを委ねることはなく、社会的な身体性の範囲内での自由のみを許容した。胎児という生命の領域への科学(人為)の不可侵を説くことで、〈個人〉としての尊厳の男女間における非対称性は下部の問題として無いものとされる。生命は誰のものかといった議論は重要であろうが、胎児のそれは議論の困難さを孕んでいる。物理的に胎児が母親の内部に在り続け、母親の妊娠出産によって存在化するという事実は、胎児のみを個人として扱ったり胎児のみで生命を議論することの不条理を語っているともいえる。しかし、社会はその難しさに苦しもうとせずに、その苦しみを女性にのみ押しつけた。だからこそ、アンヌ自身に議論の余地などない。アンヌは、議論もせずに押しつけられた「合法性」にくるまれて消失するような個人ではなく、むしろ社会とのズレのなかに意志の顕在を確認するかのように、アイデンティティが貫かれる。
しかし皮肉に思えるのは、作中に刻まれる「時間」だ。「3週」から「12週」まで刻まれる時間は、アンヌの内部に宿るものの時間だ。それはたしかに、彼女にとっては彼女自身の時間を奪う「よそもの」の時が刻まれているのかもしれないが、それが彼女から抜け出ると、時の刻みは「7月5日」となる。しかし、それは社会の時間への回帰でもあるように思われた。そもそも彼女の目的の一つとして、社会の中で「認められる」ことがあったはずだ(学問への純粋なる希求のみではなく、社会における学問の地位も彼女が求めた要素の一つであったはず)。
それでは、アンヌのこの経験は結局、彼女にとって「個人的な経験」と呼べるものなのだろうか。アニー・エルノーの原作には、次のような文章がある。
「この話を書きはじめて一週間たつが、この先続けられるのかどうか、まったく確信がない。ただ、あのことを書きたいという欲求を確かめたかっただけなのだ。この二年来取り組んでいる作品を書いている際にも、たえずわたしを貫いていた欲求を。」(103頁、『嫉妬/事件』ハヤカワepi文庫、菊地よしみ訳、2022年)
「わたしにとっては人間経験の総体のように思えることを、こうして言葉にし終えたわけである。生と死の経験、道徳とタブーの、法律の、経験、この体を通して始めから終わりまで生きた経験を。
わたしは、あの出来事に関してこれまで感じて来た唯一の罪悪感を消し去った。あれがこの身に起こったのに——せっかくの贈り物を無駄にしてしまうように——それについて何もしなかったという思いを。というのも、わたしが経験したことに関して見いだしうる、あらゆる社会的、心理学的な理由を越えて、何よりも確信している理由がひとつあるからだ。それは、さまざまなことがこの身に起こったのは、それを説明するためなのだということ。それと、わたしの人生の真の目的は、おそらくこういうことでしかないからだ。わたしの体、感覚、思考を、書く行為によって——言い換えれば、一般的に理解できるものによって——ほかの人たちの頭と人生のなかに完全に溶けこむ、わたしの存在にするということ。」(204−205頁、同)
アニー・エルノーにとっては、個人的な営み(及びそれに伴う感情)の究極は、社会との連鎖や連携を超えて、人間の根源的な所業として結実しうる「かたち」を持っているといった認識があるのだろう。だからこそ、本作で描かれる極めて私的な情動は、観る者によって共有され得る行動(action)として「憑依」してくるのかもしれない。
*音楽を担当しているガルペリン兄弟(エフゲニー&サーシャ)は、アンドレイ・ズビャギンツェフ『ラブレス』でのスコアを思わせる「声」になりきれないかのようなピアノの物質音が、誰とも知れぬ「呻き声」のようであり、実に見事な音響世界をつくりあげていた。今年日本で劇場公開された作品だけでも、『GAGARINE』、『戦争と女の顔』、『キュリー夫人 天才科学者の愛と情熱(Radioactive)』、『ペルシャン・レッスン 戦場の教室』等といった良作に携わっており、大注目のコンポーザーといって間違いないだろう。