『アーレントの哲学 複数的な人間的生』橋爪大輝(みすず書房)
「本書は、筆者が研究生活を開始してから現時点までのアーレント研究の、ひとまずの集大成という位置づけをもつ。」(「あとがき」より)
筆者の博士論文を基づき、大幅な改稿を行って書籍化された本書は、学術研究然とした佇まいを持ちながらも、適宜身近な具体例などを挿入しての解説も付され、アーレントの著作自体に触れていなくても解りやすい一方、アーレントそのものにより深く触れたいと思えるアプローチで書かれている。筆者は学部生時代ドイツ語専攻であったようで、そうしたこともあってか、一語一語から非常に丁寧に読み解こうとしている姿勢が、読む側の思考の行く先を優しく照らしてくれる。
本書は主に、アーレントの著作『活動的生』(英語版『人間の条件』)と『精神の生』を検討対象としているが、前者は英語で出版された後にアーレント自身がドイツ語に翻訳している。したがって英独両版が存在するのだが、ドイツ語専攻であった筆者はそのどちらをも参照し、その異同などからもアーレントの思考の深層を読み取ろうとしている。そうした姿勢自体、アーレントが重視した〈語り〉の行為性を検証しているかのようである。
『活動的生』の哲学を読み解く第一部は「行為」「政治」「世界」の三章に分かれ、『精神の生』の哲学を読み解く第二部は「現象」「思考」「意志」の三章に分かれている。各章で論じられる内容は精査され、その順序(構成)も考え抜かれたものであるので、各章の積み重ねによって理解が深まるのを実感できる。
先行研究やアーレントが参照した哲学者などの思想も引かれてはいるが、それらにも十分な配慮がなされ、専門的知識がなくとも筆者の主張を理解するのに困ることはない。それは、筆者に研究および論文の明確な〈目的〉意識あっての執筆だからかもしれない。帰納的過ぎるパッチワーク論文とは違って、挑戦的冒険的な側面も時折垣間見える演繹的アプローチは、アーレントの思想を〈物語〉化したかのように迫ってくる。
副題にもなっている〈複数的な人間的生〉というのが本書の主題(筆者がアーレントの思想から読み取った主題)だが、社会の中で生きる個人が対峙する複数性と、個人の内面に起ち上がる複数性の両面から、人間が生きる=存在する上での現実的価値を根源的に考えさせてくれる。所与としての複数性を「多様性」と読みかえ(言いかえ)れば、現代的テーマとして利用できるだろうが、アーレントが重視した「共通感覚」と「複数性」の在り方を考えるれば、「多様性」という言葉がもつ飛躍の危険性を感じる。複数性が孕む現実およびその価値の理解がまずあってこそ、はじめて差異の確認や共通感覚の成立が萌芽するのだろう。
人の間で生きることは複数性と向き合うことであり、人が時間を生きることも複数性との対話であろう。連鎖を生まない語りは〈行為〉とは言えない。必ずそこに波が生じてこそ〈行為〉となり、その意図が編み目を結ぼうとしたとき〈行為〉は連携する。人間的生とは、複数的であるとき可能となるものなのだろう。