『チェインドッグ(死刑にいたる病)』櫛木理宇

チェインドッグ(死刑にいたる病)』櫛木理宇早川書房、2015年)

 

フィクションを享受するためには共感や感情移入が必要だと言われるし、たしかにそれらが実際に享受しやすくさせもする。ところが、犯罪者を扱ったフィクションが膨大に算出される現今下、世の中にはそれほどまでに潜在的な犯罪者が多いのだろうか。

 

物理現象において、因果関係は極めて法則的である。しかし、人間の行動は純粋な物理現象ではない。行動を「果」とするならば、「因」は心となるだろう。心だって、純粋に非物理的だとは言えないかもしれないが、物理的法則を免れうる可能性があることも否めない。だからこそ、誰もが物理的に人を殺せる能力を有しながら、それは禁じられ、罰せられる。のみならず、実行することを思いとどまらせる強い意志が働く。

 

シリアルキラーに「共感」したとしても、それは行為への賛同ではなく、心情への理解に基づくものだろう。心情があれば必ず行為に直結するわけではない。行為に及ばぬどころか、その検討すらしたことがなかったとしても、因子となる心情を抱いたことがないわけではない。心情それ自体を罪には問えない。裁かれるのは、あくまで行為である。

 

聖人の行為に感銘は受けるし、社会が彼らを望むとしても、一個人として彼らに感情移入するのは難しい。しかし、聖人の心情が湧かずとも、卑俗な振る舞いを遠ざけることは可能だろう。

 

小説の原題「チェインドッグ」は、中島敦の「山月記」で言うところの「猛獣遣い」のようなイメージか? 勿論、小説を最後まで読めば、鎖に繋がれた犬が何/誰を指し、鎖を握る物/者が何であるかは思いを巡らすことになる。そもそも単なる獣ではなく、犬という時点で示唆的だ。しかし、鎖を手にしているのは誰か、誰であるべきか? 鎖とは果たして何のためにあるものか? そうした問いが本作を読み終えたとき、起ち上がってくる。

 

改題された「死刑にいたる病」についても思いは巡る。「病」そのものは、その因子(心情)があっただけでは発症(行動)しないかもしれない。発症しても、すべての「病」が死刑に至るわけではないし、場合によっては刑を免れることも少なくない。いや、そもそも、何が「病」かは時代や社会によっても大きく異なる。死刑というシステム自体、過去のものや旧弊と見なされている社会も多い。それは、罪を咎め糾弾するための心情は許されるが、それを実現するための無制限の攻撃性は、裁かれるべき暴力と同じ振る舞いに堕してしまうという真理を、死刑というシステムに見出しているからかもしれない。

 

ミイラ取りがミイラになる。殺人犯を裁く側が殺人を犯す。悪の深淵は覗き込んだら呑み込まれるしかない。聖なる泉を素通りしようとも。