『宗教を「信じる」とはどういうことか』石川明人(ちくまプリマー新書)

宗教を「信じる」とはどういうことか (ちくまプリマー新書 ...

 

自身もキリスト教徒である筆者は本書で「『信じる』という言葉の意味や、その行為の曖昧さについて問いながら、宗教という人間ならではの不思議な営みについて考えていきたい」と言って、語り始める。特定の信仰を持っていない私にとって、一般的な「信じる」と「宗教を信じる」の違いを直感的にしろ思考を通してにしろ理解することは容易ではない。しかし、「信じる」という行為は誰にとっても極めて重要な精神的「行為」であるとは思っている。だからこそ、本書の問いは私にとって興味深くもあり、切実に思えるものでもあった。

 

神にまつわる多様な解釈や認識が紹介されるが、そういった考察の起点となるのは、実は「信じる」そのものより「疑う」の方であることが多い。たとえば、それは「神は存在するのか」であったり、「神がいるのになぜ悪が存在するのか」であったり。それらの疑念は「神」という対象の価値に向けられたもののように思われる。それは対象にのみ「信じる」の価値を担わせようとするからなのではないか。しかし、「信じる」というのは対象のみで成り立つものではないし、対象を欠いた主体のみで「信じる」などありえない。「信じる」の主体と対象に見事に橋が架かったとき、その橋こそが「信じる」なのではないだろうか。と、小林秀雄の「Xへの手紙」の一節を当てはめて考えてみたくなった。

 

本書の終盤では、宗教の集団性がもつ功罪が列挙されつつ、「宗教が戦争をもたらすものか」それとも「宗教が平和をもたらしているか」などといった問いに答えようとする。しかし、単純な因果関係を特定することは不可能であるからのみならず、宗教に限らず本質的な営みであればこそ、それがもつ価値や影響は特定できないと同時に、それをどう捉えどう扱うかにかかっている(つまり「信じる」主体によって「信じる」対象の意味や価値が変わってくる)といった事実が確認され、現実社会のなかでの宗教の実態を直視している。

 

私が筆者から受け取った結論としては、特定の宗教を信じるにしろ信じないにしろ、人間は「信じる」「信じない」という二択のなかで揺れ動く存在であり、そういった意味では、無神論者や無宗教の人間にとっても「神」や「宗教」という存在は意識せざるを得ないものなのかもしれず、信仰の有無とは無関係に、人間にとって宗教とは等しく精神世界における根源的な問題なのだろうという発想に及んだ。ただ、「信じる」の主体が個人であるか集団であるかによって、〈宗教なるもの〉は変わるのだろうし、そのグラデーションのなかで宗教の実践や影響が変容することから派生する問題も多い。しかし、自分独りで「信じる」ことが時として脆弱にならざるを得ないこともまた真実である以上、言語を使用するようになった人間が複数による「信じる」という営為に可能性を見いだすのは必然なのかもしれない。