『スモール・アックス』スティーヴ・マックイーン

「スモール・アックス」スティーヴ・マックイーン

 

監督:スティーヴ・マックイーンSteve McQueen

原題:Small Axe   *「axe」は、「おの、まさかり」。

スターチャンネルにて鑑賞)

 

本作はTVシリーズでありながら、5本の映画のような作りになっている。監督を務めるスティーヴ・マックイーンが「自身のルーツであるイギリスのカリブ系移民コミュニティにスポットライトを当て、1960〜80年代のロンドンを舞台に、カリブ系黒人住民たちの人生の喜びと哀しみ、自らの運命を変えようと苦悩し格闘した人々の姿を、実話をベースにした5本の“映画” で綴った、感動のアンソロジー」とのこと。2020年のロサンゼルス映画批評家協会賞では作品賞、撮影賞に選ばれ、監督賞と音楽賞(ミカ・レヴィ!)にもノミネートされるという快挙。第1話と第2話は、その年の(コロナ禍で開催されなかった)カンヌ国際映画祭において、カンヌセレクションにも選定されている。

 

 

なかでも評判の高かった第2話である『ラヴァーズ・ロック(Lovers Rock)』は、70分という「上映」時間が実に心地よく機能した作品。映画的な時間と空間の使い方を、遠慮も衒いもせずに使い尽くした感のある、一夜の叙事詩

 

本作(というか、本シリーズ)では、前述の通りカリブ系移民の黒人コミュニティが描かれるのだが、それを中心に据えるのではなく、そのコミュニティのなかで展開される。つまり、観る者はコミュニティにINTOして時間を過ごす。そうした体感に適した、体感せざるを得ない映像体験へと誘われる。映画『HUNGER』の前半でマックイーンが描いた刑務所内の暴動場面を思い出す。あのとき、観る者は「その場」に立ち会うことを義務づけられた。しかし、あれほど大きな一つの力に支配された場にありながら、個人にはそれとは相容れない内面が確実に存在していることも同時に切り取っていた(たとえば、抑圧への加担に葛藤する者の存在を観客にだけ認識させるように)。それとは全く異なる光景ながら、延々と目の前で流れゆくパーティーに「翻弄」される人々の姿は、その没入感とマルチバース観を併走させる。

 

テレビというメディアは本来、ソファにいる自分と画面のなかの世界が適度な距離感(互いに侵犯しない安心感)のもとに快をもたらし得る構造をもっている。しかし、そうした関係に『スモール・アックス』は揺さぶりをかける、というよりも完全に別次元の入り口を用意して待ち構えている。その招待状を受け取るか否かは観る者次第だが、このような純度の高い別世界を提示されたとき、自意識はソファから遊離する。

 

冒頭、夜の中、列車が走る姿が映る。それは、私たちを異なる空間へと運ぶかのよう。わたしたちは同じ列車に乗る。同じバスに乗る。そして、同じ時を同じ空間で過ごす。しかし同じ黒い肌、同じ背景や苦悩を抱えながらも、そこには人の数だけ想いがある。男だから、女だから、皆が同じ想いでいるわけではない。しかし、時として通じ合えることもある。そうしたとき、「二人」は夜を越え、朝を迎える。群れを離れ、二人で自転車に乗る。部屋に充満した喧噪から離れ、静寂の緑のなかを走る。

 

正面玄関を通らずに繰り出し、帰って来る。その時間、生きていた。夜、十字架は後景だった。朝が来て、世界に光が降り注ぎ、Time For Church。しかし、心の中に刻まれた夜の記憶の輝きに説教は聞こえない。