『ブリュノ・レダル、ある殺人者の告白』
原題:Bruno Reidal
監督:ヴァンサン・ル・ポール(Vincent Le Port)
「映画批評月間 Vol.04 フランス映画の現在をめぐって」にて鑑賞
(会場:ユーロスペース)
共感や感情移入のみが作品受容の原動力になってしまうのは、文芸を嗜むうえで至極残念な態度だとは思うものの、やはりそれが発動したときの結果は大きい。しかし、本作はそうした思考とは完全に無縁。観る者の感情の行方など最初から関心の埒外にある。その純粋さの潔さが、裁きとは別次元の洞察へと誘う。
殺人者となった17歳の少年の手記である「回顧録」によって作品は綴られる。必然、モノローグにまみれ、観る者は彼にくるまれる。彼を審問する者たちによって語られる倫理はあくまで「背景」に過ぎず、彼の内面世界で展開されている真実こそが前景にある。
そうした作りの賜物なのか、彼の思考に入っていきながらも、同時に離脱するかのように俯瞰で眺めるもう一つの思考が起ち上がる。とりわけ、宗教との関わりや自然の摂理などとの連関に思いが至ってしまう。主人公はとにかく自慰を止められない。しかし、自慰に走ってしまう自分への罪悪感に耐えられない。そして、自慰を止める手段の一つとして殺人の遂行へと心が引き寄せられていく。殺人によってこそ自分は満たされる、殺人こそは刹那の快楽である自慰とは異なる別次元の永続的な快楽を与えてくれる、彼はそう考えた。しかし、そうではなかった。その落差は彼を異端から追放してしまう。もう彼を「まもる」ものは何もない。
なぜ自慰への罪悪感はそれほどまでに募るのか。勿論、彼が神学校の生徒であったこともあるだろうが、信仰以前の根源的な原因がそこにはあるように思う。そもそも自慰=射精への欲求は、生殖活動遂行のための性欲発動であるから、言ってみれば動物の本能であり、生き物の宿命であり、義務的衝動でもあろう。だから、射精の先にある「創造」にこそ本来の価値はある。従って、そこへと直結しない、ましてやそもそもそこへ向けられていない射精とは、創造への裏切りである。そういった背徳感と同時に、本来であれば(性交であれば)得られたであろうはずの「創造(の可能性)」による充足感は当然手に入らない。そんな堕落と落胆は、自らの内面の空虚を拡げる一方となる。しかも、欲情する対象も異性ではなく、更に性的ですらないような衝動だ。歪んだ心理状況から産み出される幸福像への執着を罪であると自覚しながらも、自覚している罪への告解に信仰の価値を見出すかのような倒錯した感情が次第に増幅する。
殺人は懺悔して赦しを請うことができるが、自殺はそれができない。だから、殺すのは自分ではなく他人なのだ、そうブリュノ・レダルは主張する。彼が神に魅せられているとするならば、それは「創造」の力への渇望に由来するのだろう。自慰という「創造」への裏切りに感じる罪の意識と、「創造」への欲望が歪んで発動される自慰への中毒性。命そのものを、形そのものを自ら創り出すことができぬのであれば、命あるものを、形あるものを、自らの手に収めればよい。支配によって創造主へ。実際には創造とは対極である破壊。しかし、彼にとって何よりも純粋な衝動であるというだけで、そこには創造があると信じられたのかもしれない。人間が子供をつくって「支配」するという行為およびそれを希求する心の根底と、ブリュノ・レダルが求めたものに何処か通じるものを感じる、などと書くことは憚れる。しかし、人倫と狂気は背中合わせにもたれ合っている。