『時の中の自分』外尾悦郎

『時の中の自分』外尾悦郎(道友社、2022年)

時の中の自分 外尾 悦郎(著/文) - 天理教道友社 | 版元ドットコム

 

この本の内容は、2019年12月に天理大学で行われた講演が元になっているのだが、外尾氏は同大学の客員教授であるらしい。また、この本の出版元も天理教関連の書籍を発行している天理教道友社。ただ、講演内容に天理教の話は出てこず、終盤の質疑応答のなかで外尾氏の母親が信仰していた話が少し出てくるのみ。むしろ、サグラダ・ファミリア建築に関わっている彼の口から語られる信仰にまつわる話は、当然キリスト教に関連するものが主となっている。

 

それにしても、実に興味深い話の宝庫。例えば、ガウディの評価が高まったのは比較的最近のことらしく、外尾悦郎がサグラダ・ファミリアの建築現場で働き始めた頃は今とは全く異なっていたようなのだ。そして、外尾悦郎がサグラダ・ファミリアの建築に関わるようになったのも、偶然の産物というか、「そのための渡欧」では全然なく、石を彫りたくて渡欧するなかで流れ着いた場所がサグラダ・ファミリアだったという。その辺の経緯なんかも面白い。

 

大学での講演ということもあって、教訓になる話も豊富。

 

「私はいつも、何が起こるか分からないと思うことで、事故を防げると考えている。サグラダ・ファミリアの仕事は高所での作業になる。当時は、高さ60メートルの手すりもないところで、安全ベルトなしで仕事をしていた。

これほど危険な仕事はないが、実は「危険だからこそ安全」なのだ。なぜなら、危険だと分かっているから。」(28頁)

 

命綱がないことが命をつないでいる…とも読める。「逆説的」の「説」とは、単なる一般論とか常識的思考を指すだけなのかもしれない。

 

ガウディの発想には、さまざまな問題を「総合的」に解決しようとするところがあったとか。たとえば、ある機能を果たす部分が構造的に難ありだった場合、機能と構造を対峙させて考えるのではなく、「機能を構造に組みこむ」ようにして解決したというのだ。

 

「われわれは日々、専門的な問題に直面する。そして、それを専門家が分けて考える。そうすると、一つの問題が二つの問題になってしまう。特に真面目な日本人は、どんどん問題を細かく見ていき、その結果、問題が増えるだけで、解決が追いつかなくなってしまうことがある。

これに対して、ガウディはそのような各分野の問題を、一つの答えで解決できることを教えてくれた。私は、それが“未来”だと思う。

いま、われわれがやらなければならないことは、ガウディのように「いくつもの問題を一つの答えで解決する姿勢」を持つことではないか。それは天才だけができるのかというと、そうではない。われわれの姿勢次第、その姿勢を教えてくれるのがガウディなのだ。」(32頁)

 

敵だと考えていた「問題」を味方につける。建築における大敵「引力」。その力を借りて、頑強な設計を為したのがガウディだという。

 

「相手を敵と思っている限り、ずっと敵のままだ。その敵をいつか味方にする。その知恵が人間には可能性として秘められていることを、ガウディは証明している。確かにガウディは、そういう知恵を持った人だった。」(80頁)

 

どのように味方にしたのかは、本書に収録されている写真を見れば一目瞭然。実に面白い。

 

ガウディがデザインした天使には基本的に羽がないらしい。外尾氏は言う。「これは人間の心の中にいる天使が、悪魔にもなり得ることを暗示する。正義感も優しさも、それを信じきったとき悪に堕することがある。そういう人間の性質を、ガウディは表現したかったのかもしれない。」

その天使がハープを弾く彫像を外尾氏が作った際、彼はハープの弦をとってしまった。最初は周りの意見によって弦も作っていたのだが、「われわれの心には共鳴箱があって、人によって感度が違う。その時々によって感動するものが変わってくる。だから、(天使が弾いているハープの)弦は見る人に付けてほしかった。この彫刻は私が完成させるのではなく、見る人が完成させる。その意味を込めて、弦を付けていない」。

 

外尾氏の語りには「見立て」が多く、それがまた魅力的。

 

サグラダ・ファミリアは、実は教会でありながら、見事なピアノの構造を持っている。大聖堂全体が、100メートルを超えるグランドピアノなのだ。私が造った3メートルの彫刻などは、楽器のための小さな装飾でしかない。

12使徒の塔は、内部に螺旋階段が設けられ、旅行者が上ることもできるようになっているが、基本的に人間が入るためのものではない。実は、鐘楼として造られている。」(59頁)

 

「文化を生かし続けるためには、どうしたらいいのか。それは、体の中を流れる血のように、文化の血流を増やすこと。目もあらゆる臓器も、同じ血が通っている。その心臓や臓器のすべてが、1種類の血でつながっている。

では、文化の血流とは何か。それは「違い」を楽しむこと。「違い」に価値を見いだし、「違い」を認め合うこと。どの国のどんな文化であれ、お互いがお互いを認め合う。そこに興味を持つ。そして違いを楽しむ。そうして続けることができれば、世界は平和を維持できる。そのためには、まず自分の文化をしっかり持つことが大切だ。」(85頁)

 

こうした精神は、彼の想像力/創造力の源泉なのだと思う。というのも、彼は日本語の「言葉」という表現(「言葉」を「言う」と「葉」で表現する)から、ガウディが目指した自然と彫刻の融合を独自に解釈するに至ったという。外尾氏の母親は天理教を信仰していたようだが、自身の信仰については特に言及はない。想像するに、特定の神や宗教への信仰はなくとも、「神」や「信仰」といった世界へのより普遍的な理解に努めながら、サグラダ・ファミリアの創造に携わって来たのだろう。そして、それを可能にしたのは、文化や信仰を越境する力だったように思う。