『死刑について』平野啓一郎(岩波書店)

死刑について

 

冒頭で筆者は、「僕は小説家なのですが、京都大学の法学部出身です。小説家なのに文学部出身ではないことに、実は少しコンプレックスも感じていました」と述べている。そうした言明には、文学者として述べられることを述べようとしている覚悟と、法学を志す場に身を置いた経験を活かすべきという使命が感じられた。現に、最も重要で本質的なことは小説を通してしか書けないというようなことが語られるなど、一人の人間が大きな問題について論じるときの限界と可能性を弁えた考察が展開されている。「説得のため」に語るのではないと筆者が言う通り、彼の意見やそこまでの道程と私たちは現前で静かに対峙する。そこに浮かび上がってくる自らの意見と向き合うために。

 

この著書のなかで筆者は死刑に反対する(死刑を廃止すべき)との立場をとっている。しかし、最初から一貫して同じ立場だった訳ではなく、以前は死刑に反対していなかったことが語られる。積極的な賛成というわけではなかったようだが、死刑廃止論に対しては違和感をおぼえるといったような、おそらく日本社会全体の多数派を占めそうな立場だ。巻末に掲載されている内閣府の調査結果を見ても、日本における死刑反対派は少数であり、数字上では賛成派が大勢を占めるような結果と読める。しかし、「賛成派」の内実としては、諸手を挙げての賛成というよりは、「廃止には抵抗がある」といった感覚にもとづいた「どちらか決めるとなれば賛成」といった人々が最も多いのではないかと思ったりする。(この調査では、「どちらかといえば」的項目はない。)

 

数値の結果だけからは拮抗していないように見えるのだが、現状に対する「賛成」が多数の場合、そこには潜在する問題意識がないとは言い切れないように思う。生死に関する問題、しかし多くの人が当事者にはならない問題に関しては、そのことについて議論すること自体が億劫になったり、重苦しさを感じたり、議論の俎上に載せること自体がタブー視されるような傾向がある(それは考えないことへの罪悪感を考えないことで封じようとするパラドクスにも思えるが)。また、抽象概念としての「社会」よりも、自らが属する「世間」を前提として語ろうとする私たち日本人の性向のようにも思える。だから、自分が「経験者ではない」「当事者ではない」ことは「議論できない」どころか「議論すべきでない」ほどの忌避感を生むのかもしれない。

 

しかし、筆者も述べているように、死刑に賛成するにしても反対するにしても、そこには被害者および加害者に対する想像力なしには意見を持てないはず(持つべきではない)であり、社会の一員である以上、実際に執行されている死刑に対して「無関係」ということはありえない。とはいえ、あらゆる社会問題も同様であるが、犯罪とは無関係であるという自認によって自らの安全を保障したい人間にとっては、語ることだけでも「近づく」「関わる」ことになるかのごとき錯覚をもたらしてしまうのかもしれない(言霊信仰的な影響もあるだろう)。おまけに、「わからない」「どちらともいえない」という立場が"市民権"を獲得してしている日本社会においては、「考えない」「議論しない」ことは至極無難でもあるのだろう。

 

そのような問題は現実に多々あるが、死刑という制度は極めて重大な議論すべき問題だと私も思う。なぜなら「合法的に人間を殺すことができる」状態を是とするか否かという問題であり、そう考えるならば「戦争」をどう捉えるかと同等の深刻さを抱えた問題であるからだ。

 

「人をなぜ殺してはならないか」という疑問に対する答え方は色々あると思うし、正解が一つになりうるとは思わない。私が納得した答えの一つは、養老孟司が著書で語っていたものである。犯してしまっても自分で復元できる(取り返しのつく)ことであるならば、それが間違いであったと後から気づいても何とかなるが、自分で復元できない(取り返しのつかない)ことはどうしようもないから、そういったことは絶対的にすべきでないと言えるのではないか。そのような内容だったと思う。人間はあらゆる技術を手にしてきたが、いまだに生命を復元することはできない。執行した死刑を取り消すことはできない。判決が人間によってなされるものである以上、完全な正しさで常に下されることもないはずである。であるならば、「取り返しのつかない」手段は適当ではない、私はそう考える。ただ、「取り返しのつかない」という観点で言えば、死刑を廃止したことによって悲劇的な事態が生まれたとしたら、それだって「取り返しがつかない」かもしれない。いずれにしても、生命に最も直接関わる制度である死刑であればこそ、「取り返しのつかなさ」とは常に表裏一体である。

 

完璧な答えなどなく、全員一致の可能性などないのは、民主主義の大前提であるはずだ。むしろ、そういった前提を確認し続けることこそが、民主主義の価値であり可能性であると思う。であるならば、「考え続ける」「議論し続ける」こと自体が肝要であり、必要であり、不可欠であろう。したがって、「議論にすらならない」という状況は、民主主義社会にとっては致命的なように思えて仕方がない。