李禹煥(国立新美術館)

国立新美術館開館15周年記念 李禹煥 Lee Ufan

2022年8月10日〜11月7日(国立新美術館

2022年12月13日〜2023年2月12日(兵庫県立美術館

 

国立新美術館開館15周年記念 李禹煥 展覧会ホームページ

 

展覧会図録に収められている李自身の文章「見ることの身体的陽性」の中に、次のようなエピソードが紹介されている。

 

「長年良い知友だったシグマー・ポルケは晩年のある時私に言った。「ゲルハルト・リヒターは絵画のあらゆる可能性を試みた。しかし彼がやってないことが一つある。それをお前がやっている」。ポルケは私の単純な絵画を見て、描くことと描かぬところとの関係に絵画の成立を読み取っていたのだ。絵画ばかりではなく、作ることと作らぬこととの関係性で彫刻が出来ることも同様である。自己のイメージ、自己のロゴスで物を覆うのではなく、物とか空間と考えがぶつかれば、その瞬間、彫刻の場が形成されるということだ。そこで大事なのは、響き合いを呼び起こす出来事の関係性である。

 私の場合、この関係性は自己と他者、内部と外部の独特な関わりを指す。関係であることは、オールマイティーではなく外があるという意味だ。こちらと向こうの対応である。だから表現は、近代的なエゴイズムの発露とか吉本隆明のいう自己表出のような自律的なものではなく、自己が外に呼びかけて成立する出来事の場になる。これが作ることと作らぬこととの関係項である。…」

 

同時期に同じ東京で開催されていたゲルハルト・リヒター展だが、抽象表現という意味では共通性がありつつも、李禹煥の展示とは極めて対照的だと思った。作品それ自体がそもそも対照的なだけでなく、展示空間の空気にも現れていた。画面いっぱいに描き込まれたリヒターとは対照的に、余白こそが主体となった李禹煥。それと呼応するかのように、会場を人が埋め尽くすリヒター展とは対照的に、余白が自然と生まれるかのような導線を観者が生成している李禹煥展。見る者がとにかく読もうとし語ろうとしてしまうリヒター展に対し、李禹煥の作品をまえに人々は沈黙によって感受しようと静謐にひたる。そうした会場の対照性は、すべて二人の作家が世界と向き合うときの姿勢の志向の違いから来るのだろう。

 

ゲルハルト・リヒターの作品はとにかくリヒターが語っている。視る者はその作家の語りを読もうとする。一方、李禹煥の作品は物そのものが語ろうとしている。それは物だから言語化されていない。観る者は自ずと非言語で受けとるべく、耳を澄ますしかない。

 

図録に収録された李禹煥の文章(「見ることの身体的陽性」)には、次のような一節がある。

 

「…見ることにも音を伴ったり時には匂いを含んだりすることがあり、特定化された場において見ることの相互性が際立つ」

 

つまり、李禹煥の作品は視覚芸術でありながら、視覚だけが特権化されていない、特権化されないように出来ている。ゲルハルト・リヒターの作品が視覚の特権を力強く放ちまくっているのとは実に対照的。

 

今回の展示の一番最初に置かれた絵画「風景」シリーズ。アルフレッド・パックマンは「平面であるにもかかわらず、この作品は色のアウラを通じ、ほとんど全身没入型といってよい雰囲気を創り出す」と評している。まさに、この絵の前に立ったとき、私は絵にのみ込まれるような感覚に見舞われ、没入していった。目は絵の表面を見ているはずなのに、身体はその奥にある粒子に包まれているような感覚。

 

《風景》1968ー2015年 キャンバスにスプレーペイント 各218.2 x 291cm

《風景》1968ー2015年 キャンバスにスプレーペイント 各218.2 x 291cm

 

李禹煥が「もの派」と称されるのは、作品が「もの」主体だからというよりも、「もの」に語らせようとしているからだと思う。

 

「あまり特定のイメージを呼び起こさない、いわば抽象性の高い石がいい。空間〔中略〕との関係ができるだけニュートラルである必要があるから」(李禹煥

 

抽象性の高い石は、多義性を持つだろう。ただ、李禹煥が志向するのはただ多様であったり両義であったりする意味というよりも、「関係項」シリーズなどが顕著に語るように(作品自体のみならず、そのタイトルであったりが)、自由に関係を結べることの可能性(無限性)にある気がする。彼の絵画作品で余白が重要な意味を持つように、見えないところ=流動性のなかを往き来する自由に、観る者が飛び込める。気づいたらそこで泳いでいるかのように。

 

李禹煥が作品に用いる「もの」は、石、鉄、ガラス、鏡などがあるが、彼が創り上げようとしているのが作品というより現象であるとするならば、同様に多用されるのが光と影であるのは必然かもしれない。(ということは、同時に、そこには時間の概念が大いに導入されてもいる。)

 

「関係項 — 星の影」と題された作品における素材表記は、「石、ライト」である。

 

作らないこと」を続けてきた李禹煥の回顧展|青野尚子の今週末 ...

 

この作品がヴェルサイユ宮殿で展示された際には、「ライト」は陽光であった。描かれた影(固定)と、太陽によってつくられる影(流動)の一回性による無限、二重性という多様な多元。

 

「関係項 別題 言葉」という作品の素材表記も「石、座布団、ライト」となっているのだが、この作品が初めてピナール画廊で発表された時(1971年)の素材表記は「座布団、石、場所、位置」になっていたとか。まさに、李自身が作品タイトルにもその言葉を用いるように、彼が創っているのは「現象」なのだろう。

 

いや、もっと正確に言えば、"彼が"ではなく、彼と観る者(たち)によって創り上げられるのが「現象」(=李禹煥の作品)なのかもしれない。「関係項 ー 棲処(B)」に《入った》時、まさにそう感じた。

 

国立新美術館開館15周年記念 李禹煥|企画展|展覧会|国立新 ...

 

この空間に入った瞬間、鑑賞者は単なる観る者ではなくなる。敷き詰められた石を踏むことから逃れられない当事者となり、作品の一部となる。そこに普通に存在するだけで発せられる音。一回限りの響き、無限の反響。能動的に働きかけている訳でもないのに生じる動きと音。メイクされたノイズではなく、生まれ出づる音。

この作品は、フランスのラ・トゥーレット修道院での展覧会で発表されたと聞き、音の重要性を改めて感じると同時に、素材表記に「音」(もしくは「人」)とないのが不思議に思えるほどだった。

 

とにかく全篇が見どころであるのだが、それを享受するには全身の感覚を研ぎ澄まして臨まなければならず、かといって構えすぎると深く潜れない。思索の示唆に富みながら、過剰な思考は邪魔をする。哲学の深淵を感じさせるような対話の時間にひたれる、極上の空間だった。

 

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