鬼火(ジョアン・ペドロ・ロドリゲス)

原題:Fogo-Fátuo(英題:Will-o'-the-Wisp)

監督:João Pedro Rodrigues

 

東京国際映画祭(2022)にて鑑賞。

 

ジョアン・ペドロ・ロドリゲスのレトロスペクティブが企画され、クラウドファンディングに参加して、アテネフランセ文化センターでの上映に心躍りながら駆けつけたのが、もう10年近く前になると知り、個人的な郷愁にひたりつつ本作に向かう。長編前作の『鳥類学者』も東京国際映画祭のワールド・フォーカスで上映されたのだが、そのときはTOHOシネマズ六本木の7番(最大スクリーン)だったので、その体験自体の尋常じゃ無さが破格の味わいを約束していた気もする。が、緊張しすぎた堪能は記憶の定着を妨げ、作品内容はあまり憶えていない。というか、ジョアン・ペドロ・ロドリゲスの作品のいずれにおいても、断片的な刻まれ方が深い反面、作品全体としての記憶は曖昧だったりもする。しかし、今回はちょっと違う。そもそも上映時間が67分であり、時間が飛び飛びだったりするも、作品サイズのコンパクトさに見合った濃縮され具合で、まさに一気呵成、あっという間の没入と退散だった。

 

冒頭に提示されるように、本作は「ミュージカル・ファンタジー」。

ミュージカルでファンタジーなら、何でも許せるし、何だってあり得る。

王子が消防士にだってなれば、白人王子と黒人消防士が愛し合おうが何ら禁忌じゃない。

白と黒、王族と肉体労働者、森林(創造)と山火事(破壊)。

それらは引っ張り合ったりせずに、どちらをも巡りながら世界は廻る。

本作に横溢しているイメージは、円柱(ポール)。

木、ろうそく、ロープ、降下ポール、男根。

完全なる対称性を持つ「円」で世界は回り、そして歌う。

 

物語も父の死から子の死へと飛んだり、円環である一方、その先の子は不在であるという非円環だったりもする。永遠性を感じさせながら、ものすごい刹那的でもある、そんな作品世界のちぐはぐさに心地よさを覚える妙。珍妙さと言えば、中盤、スライドで立て続けに投影される男根たち。そもそも、撮影された男根をスライドで映し出し、それを撮影しているという行為自体が奇妙。おまけに、主人公カップルがシックスナイン(円環!)する場面で「登場」する男根は玩具。そのくせ精液はやたらとリアルに作られていて、そうしたグロテスク一歩手前がものすごくファンタジーしていたりする。

 

撮影は、ジョアン・ペドロ・ロドリゲス作品の常連フイ・ポーサス(Rui Poças)が担当していて、67分終始目が離せない。ミゲル・ゴメス監督作の『熱波』や『私たちの好きな八月』(個人的偏愛作品)でも撮影を担当しているし、アイラ・サックスの『ポルトガル、夏の終わり』も彼の撮影による。そんなフイ・ポーサス・マジックとも言える色と構図の端正さが、本作に品格を与えているのは間違いない気がする。

 

*ファド(fado)とは、ポルトガルの民族歌謡のことだが、元来の言葉の意味は「宿命」「運命」といった意味。映画のラストで「男根」に「ファド」とのルビが振られているような気がしたが、そうだとすれば、「fado」とは本作における重要なキーワードなのかもしれない。

 

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Fogo-Fátuo

Fogo-Fátuo