この通りはどこ? あるいは、今ここに過去はない(ジョアン・ペドロ・ロドリゲス、ジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタ)

原題:Onde Fica Esta Rua?

監督:João Rui Guerra da MataJoão Pedro Rodrigues

 

東京国際映画祭で鑑賞。

 

パウロ・ローシャ『青い年(Os Verdes Anos)』をめぐるドキュメンタリー。

同作は、日本で劇場公開された初めてのポルトガル映画らしい。(1980年に、パウロ・ローシャ監督作である『新しい人生(Mudar de Vida)』と共に)

ちなみに、オリヴェイラ作品が日本で初めて上映されたのは、1993年の〈ポルトガル映画祭〉(主会場はアテネフランセ文化センター)だったとか。

 

以前、ホセ・ルイス・ゲリンの『イニスフリー』が東京国際映画祭(2009年)で上映されたことがあり、勇んで駆けつけたものの、ジョン・フォード主演『静かなる男』の舞台となったイニスフリーをめぐるドキュメンタリーだったのに同作を観たことがなかったこともあり、作品を「観たことにならない」感覚だけが残ったものだった。その後、『静かなる男』はリマスター版が劇場公開され、同作を観てから再見した『イニスフリー』は全くの「別物」だった。

 

そんな苦い経験もあって、今回は前日に『青い年』を見直して(こちらは一度観たことはあったが、もうとっくに忘却の彼方だったので)、臨んだ。『この通りは…』の上映時間は88分なのだが、『青い年』もほぼ同じ上映時間。『この通りはどこ?…』はもしかしたら、『青い年』における「場所」を時系列に沿って収めているのかな?と思ったりもしたが、確信はもてぬし、おそらくそこまで厳密ではないと思う。ただ、非常事態で人が消え失せた街の姿が映されていくと、『青い年』で背景だった場所が一気に前景化してくる。そうした無言の「空間」に、可視から不可視へと「時間」の物語が起ち上がる。

 

当時からほとんど変わっていないように思われる場所もあれば、痕跡に目を凝らさねばならぬ場所もある。「そのまま」によって鮮やかな再現がなされる一方、「不在」が喚起する記憶と想像の協同は、第三のイメージとして自分だけの物語をつくりだす。

 

IMDbのキャスト欄には、『青い年』のヒロイン役だったイザベル・ルト(Isabel Ruth)のみが記載されているが、本作の冒頭には『鬼火』の二人(王子と黒人消防士)が登場してもいる。街角でタバコを吸い始める「王子」に火をもらうためタバコでキスする「黒人消防士」という図。この場所、『青い年』でリスボンに到着した主人公の青年が、「この通りはどこ?」と通りがかった老人に尋ねた場所だったと思う。(その台詞から本作のタイトルはとられたのかと勝手に思っていた。)

 

もう一つ印象深い場所としては、『青い年』で主人公の青年が「出られなくなる」扉。本作では、ウィルスを気にしてか、男性が手でドアに触れまいとしてなかなか開けられず「入れない」扉になっている。『青い年』では扉の開け方を教えてもらって出られるのだが、もはやこうした「接触」も一切消えた現在(2000年)の街。いまでは、「この通りはどこ?」などと尋ねることも憚られ、ましてや目的地まで同行などしようがない。しかし、本作ではところどころにハグの場面が挿入され、その印象を刻んでいる。

 

本作における最大の仕掛けは、『青い年』のラストで刺されて倒れたヒロインの「その後」が描かれることだろう。ヒロインを演じたイザベル・ルトが、起き上がり、外へ出て、歌い出す。そして、車に取り囲まれヘッドライトを浴びる。『青い年』では、ヒロインを刺した青年が大量の車に行く手を遮られる、ラストシーン。過去とのつながりを感じつつも、今ここに過去はないことを強く実感させるラスト。

 

Where Is This Street? Or with No Before or After (2022) - IMDb

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