『パシフィクション』アルベルト・セラ

原題:Tourment sur les îles

監督:Albert Serra

 

 

 

東京国際映画祭にて鑑賞。

 

日仏学院(現在のアンスティチュ・フランセ東京)でアルベルト・セラの作品を初めて観たのは、もう10年前になる。(2022年の2月だった)

フランス語字幕で観た『騎士の名誉』と英語字幕で観た『鳥の歌』だったが、台詞の量が少ないこともあったとはいえ、作品と対峙するだけでただただ魅了された二本だったので、爾来、アルベルト・セラという名は自分のなかで特別なものとなった。『ルイ14世の死』が劇場公開された時は驚いたし感動もしたが(特集上映間まであって、監督まで拝めたし)、前作『リベルテ』の孤高っぷりをユーロライブの闇の中で堪能して以来、随分と待った気がする。が、『リベルテ』を観たのは2020年3月だったようで、「コロナ禍」分の時間があれから流れただけのよう。そんなこともあって、今年の東京国際映画祭では最も楽しみにしていた一本。チケットも2回分購入してしまったほど。

 

本作は、物語とか進行とか展開といったものとは無縁に、ただひたすらに時間が堆積していく過程を味わうしかない作品のようにも思われ、だからこそ作品評価は趣味の問題のようでもある。作品内においては完全に「アルベルト・セラ時間」が流れるので、そこに自らの時計をセットできないと、作品と全く同期することができないだろう。しかし、セラ時間と同期してしまったが最後、時間の長さは消滅し、ひたすら「いま」だけが押し寄せる。

 

シネスコの画面、ロケーション、スペクタクルのもつ従来のアルベルト・セラらしからぬ要素が時折挿入されつつも、アルベルト・セラらしい停滞感が根底を常に流れており、無駄に魅了される画の数々が完全に「徒労」に終わることを識りながら観ているような私にとって、それらは何にも何処にも繫がらないからこそ「いま楽しめばよい」だけの光景として眼に入る。

 

何が起こっているのかを、この映画はわかろうとしていない。ましてや、わからせようなんて思っていない。それが共有できたなら、これほど贅沢な遊戯もない。しかし、それを明確に「約束事」として提示してくれる親切さは皆無なうえに、意地悪い思わせぶりも配されていたりする。延々と続く会話の停滞にタランティーノを感じつつ、しかしタランティーノが確実に提供する「サービス」が来ることなど微塵も期待していなかったのに、思いもよらない終盤のSF的世界観(字義通りのそれではない)に眩いほどの陶酔感をおぼえつつ、パシフィックなフィクションがどこまでもマジックのごときリアリズムで突き進む。

 

前作『リベルテ』では、観客を森の闇に立たせたアルベルト・セラ。本作でも、観客は大きな波のうねりを感じたり、上空から海を見下ろしたり、実際に船にも飛行機にも同乗させる。しかも、その唐突さは視覚を介して一気に腰のあたりの感覚に突撃してくる。そうした浮遊感は作品全体にも流れており、人物に寄り続けたカメラが一気に広角で世界を見ようとした瞬間、私たちの身体は所在なく放り出される。その繰り返しに心地好い疲弊を覚え始めるとき、島での生活に忍び寄る危険にも麻痺し、世界の動向からも遠く離れてしまう。地政学的には典型的な空間に身を置きながら、その象徴性からの解放を希求してしまう諦観。兵器が一切出てこない(見えない)『地獄の黙示録』を見ているかのような感覚に見舞われる。

 

キーヴィジュアルにも用いられている空の赤は、映画冒頭に登場し、映画の最後には海の赤へと変容する。「帝国」の税金にも貢献するカジノ運営への横槍を入れる教会。それを牽制しに行く弁務官ブノワ・マジメル)の権力を保証するのは国家。その国家が事業とする核実験へと向かうボートの上の青年の胸に光る十字架。役人も軍隊も商人も、誰ひとりパラダイスを体現できずに、希求すらできない。そこにかろうじて「平和」と思しき「虚構」(パシフィック・フィクション)が成立している。それでは、目の前の雄大壮美な自然は何のためにあるのか。ただただ静かなる虚構(パシフィック・フィクション)であるままか。

 

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