『融合しないブレンド』庄野雄治

筆者の庄司雄治氏は「アアルトコーヒー」を徳島市内に開店(2006年)したコーヒーロースター。2014年には「14g」という二店めも開店している。

 

mille books (@millebooks) / Twitter

 

徳島に住んでいた知人から一度、「アアルトコーヒー」のコーヒー豆をもらったことがある。個人的にものすごい好みの味で、すぐにWebサイトを見て注文しようと思ったものの、面倒くさがってそのままになった記憶がある。本書には「クレジットカードが使えないからといって購入しない人は、本当に私のコーヒーを飲んでみたいとは思っていないのかもしれない」と書かれていてドキッとするも、その後に「わざわざメールを送って、銀行振り込みや代引きにかかる手数料を払ってまで買ってくれる人を、本当にありがたいと思う。私ならそんな面倒なコーヒーは買わないだろう」という文章が出てきて、ホッと(?)する。でも、あの味にまた会いたくなった。果たして購入までの面倒を乗り越えられるだろうか。それをするかしないかに悩むことの意味を淡々と再考することに味わいを感じさせてくれるような、そんな低体温だけれど確実に熱を感じるようなエッセイが連なっている本。

 

会社勤めをやめ、コーヒー業界にいた訳でもない筆者が個人で生豆を購入し、コーヒーロースターになって店を開く。「こだわり」の多そうな人物でありながら、「こだわらない」性格も随所に作用して出来上がっている独自性が面白い。「いいコーヒーを作るために最も大切」なのは「焙煎機の掃除」だと信じる筆者は、それをどうしても後回しにしがちだったと語る。その理由は「面倒くさい」から。その億劫さの原因を探ると、「ネジを外して、再度締めるという行為がなにより億劫」だという結論に至る。そこで、「最小限必要なところ以外、ネジを締めるのをやめてもいいんじゃないのか」と思い立ち、ネジを締めずに焙煎機を掃除すると苦痛さは消えた。庄野氏は次のように書いている。

 

「たしかに、メーカーの推奨通りにやるに越したことはない。それが一番いいに決まっている。だけど美味しいコーヒーを作るためには、掃除を最優先しなければいけない。億劫で掃除をしなくなるのなら、焙煎機に差し障りのない程度に、自分のやりやすいようにすればいい。」

 

ほとばしる感性で直走るような職人とはひと味違う、思惟の小さな積み重ねで絶妙なバランスのなかで自分に最良の状況を生み出す。そんな人物像が浮かび上がってくる。そこには当人だけに留まらないリアリティ、アクチュアリティが感じられ、読んでいるこちらにもスーッと入って来る。以前飲んだアアルトブレンドもそんな味だった気がする。(個人的な感覚では、必要以上に「コーヒーだ」という主張を一切しない、素顔のコーヒーといった印象だった。)

 

筆者が初めての本を上梓したとき、友人から「この本には情報がないな」と言われたらしい。人々が情報を欲するのは、それが役に立つからであって、利用価値があるから。ただ、情報の寿命は短い。だから、最近の図書館が「情報」について書かれている本を多く購入し、文芸や批評などの本が少なくなっている事実を残念に思う。ただ、前者の方が貸出実績が好いのだとすれば(貸出回数などで図書館の価値を計る現状からすれば)、やむを得ない判断なのかもしれない。とはいえ、私は本書を図書館で借りた。情報一辺倒へ抗おうとする希望をそんな図書館に感じもする。

確かに、私が以前ブログを書いていたとき、稀少性や有益性、速報性のある情報があったりするときの訪問数は桁違いだった。ツイッターなどでは、そうした情報発信にこそ人は群がるし、その現象にこそ価値があるというソーシャルでもある。それはそれで、私も利用し享受もしているし、もはやインフラ的になってもいる。ただ、価値や時間がそれだけに駆逐されてしまうことへの危惧もある。

 

情報とは近い未来に影響を与えるもので、それは消費され、残らない。あくまで「使う」ものであり、それ自体に価値がある訳ではないから、タイミングや扱い方によって価値も変わる。そして、何より、「いまここ」で味わえるものではないから、情報への渇望が現在を潤すことはなく、「いまここ」の空洞化を推し進めるだけだろう。

 

だから、情報が何もないのに楽しいと思える作品との時間は、ものすごく今を味わっているのだろうし、その今はものすごく生き長らえると思う。

 

筆者が焙煎から得た知見として語る、「一番の近道は、繰り返しを繰り返すこと」。今の一回性・特殊性を強く感じられるのは「繰り返し」のなかでしかないのかもしれない。「同じ」ことをするからこそ気づける「違い」。そのなかに見つける自分という「いま」。