『アフター・ヤン』コゴナダ

原題:After Yang

監督:Kogonada

 

 

“テクノ”と呼ばれる人型ロボットが、一般家庭にまで普及した未来世界。茶葉の販売店を営むジェイク、妻のカイラ、中国系の幼い養女ミカは、慎ましくも幸せな日々を送っていた。しかしロボットのヤンが突然の故障で動かなくなり、ヤンを本当の兄のように慕っていたミカはふさぎ込んでしまう。修理の手段を模索するジェイクは、ヤンの体内に一日ごとに数秒間の動画を撮影できる特殊なパーツが組み込まれていることを発見。そのメモリバンクに保存された映像には、ジェイクの家族に向けられたヤンの温かなまなざし、そしてヤンがめぐり合った素性不明の若い女性の姿が記録されていた……。(公式サイトより)

 

ヤンは故障によって、家族から後退する。修理によって復活することを模索するも、その道は閉ざされる。しかし、まだヤンの「肉体」はそこに変わらず在るようなので、その不在が永遠となることの実感がない。ヤンがロボットであったがゆえに、「いま、何が失われたのか」の答えを掴めずにいる。人間であるならば、それは死であるはずなのだが、今のヤンに訪れたものも「それ」なのか? ロボットも死ぬのか?

 

修理で「生き返る」ことを期待していたジェイク(コリン・ファレル)の認識においては、ヤンは交換可能な存在だった。しかし、もし本当にそうであるならば、新たなテクノ(第二の「ヤン」)を招き入れることで解決する。しかし、娘ミカ(マレア・エマ・チャンドラウィジャヤ)の認識において、ヤンは唯一無二の兄である。だからこそ、「そのヤン」を取り戻そうとするのだが、叶わぬ。修理の手掛かりのために始めた、ヤンのメモリバンクの確認作業。そのなかでジェイクは少しずつ、ヤンに宿っていた魂のようなものを感じる。失われて初めて気づくことになった「それ」は、選択された記憶の堆積によって培われ、ヤンを唯一無二の存在たらしめていた。それは他者との関係に唯一性を見いだし、過去への慕情を抱きさえすれば、誰もに宿る自意識と記憶による人格なのだろう。

 

ヤンは毎日数秒間しかメモリバンクに動画を残せない。その数秒間を自覚的に選ばなければならない。喪失や忘却への認識(恐れ)を、人間よりも身近に感じていたかもしれない。人間の記憶はより大量に残せるとしても、それは事後的な選択によって存在する全てが思い出せる訳ではない。また、カメラで収めた映像でもないので、撮影と同時に編集や加工が施された「映像」として残っている。ヤンのメモリも人間の記憶も、それだけでは不完全であり断片に過ぎないことは同じだ。そして、そこに自分そのものが映っていないことも同じ。私たちは、他者のなかで生き、他者を向いて生きるしかない。他者によってしか自己の記憶を確かめられない。他者だけが自己の記憶を確かめてくれる。

 

ミカとヤン、エイダ(ヘイリー・ルー・リチャードソン)とヤンは、他者としてのヤンと共に生きていた。ジェイクやカミラ(ジョディ・ターナー=スミス)は、互いを他者として認めることすらままならず、ヤンの存在も他者ではなかった。自己を知ることへの希求は、自ずと他者との連携による確認を要する。ヤンもそうであった。鏡に映る自分よりも、自分を眼差す他者を眼差した。

 

本作のもう一つの軸となる家族というテーマ。ジェイク、カイラ、ミカ、ヤンは誰も血が繫がっていない。肌の色も違えば、ヤンは三人とは「種」も違う。血縁関係を家族であることの十分条件と見なすとき、家族であろうとする営みは必要とされなくなる。エイダの「なぜ人間は、テクノが人間になりたがっていると思うのだろう?」という言葉は、血の繫がってる家族を当然と思う人たちが、血の繫がってない家族の人たちに欠落感を見いだしてしまうような感覚を指摘しているかのようにも読める。「何でできているか」という物質的側面を重視するという意味では、ロボットやクローンと人間を区別することも、血縁関係の有無で家族を捉えたりすることも極めて似ている。物世界を超えた次元で思考し、そこに価値を見出せることが人間の尊厳を生むのだとすれば、決して触れられない他者の内面へと滲透し生き続けることこそが、人間であり家族であることの根源的価値なのではないだろうか。

 

アフター・ヤン」"After Yang"(2021) - CINEMA MODE

本作のキーヴィジュアルでは、四人の視線は交わりもしなければ、同じ方向を向いてもいない。互いを見ることもせず、かといって同じものを見ようともしない。それを個体の独自性が発現した新たな家族像としてポジティブに捉えるか、再生前の家族の未熟さと捉えるか。どちらにも見えるし、どちらでないようにも思える。ただ、そうした両義性なり多義性を、この一枚から感じとれる「余白」こそが、コゴナダ作品の醍醐味なのかもしれない。コリン・ファレルはコゴナダ監督について次のように語っている。「独特な余白がしっかりと残されていて、その余白で何をするかを大事にしていると感じます。」

 

タイトルである『アフター・ヤン』は、ヤンなき後の世界を指しているのかもしれないが、"After you."(お先にどうぞ)といった慣用表現を思い浮かべると、ヤンが先に旅立ったことを意味しているようにも思える。あるいは"afterlife"(死後の生、来世)という語を思うとき、ヤンなき後もヤンが生き続けている世界のようにも思える。原作の短編小説が「Saying Goodbye to Yang」であるから、「After Yang」というタイトルに(とりわけ「after」に)コゴナダ監督から提示された豊かな「余白」を味わう必要がある気がする。